そしてもう一つ、この旅で必ずや足を運びたかった場所。
それが北九州門司にある『柳の御所』!
源氏に追われた平家一行は、安徳天皇を引き連れこの地『柳ヶ浦』にたどり着き御所を造営したという。
それでこの一帯は『内裏』と呼ばれるようになった。
しっかりと古い記録にも『内裏』という地名で記載がされているよう。
ただ、源平の戦いも終わり時代は享保の頃、この近海では海賊が頻出し海が血で染まることも多かったよう。そこで『内裏』の海に血を流すのは畏れ多いということで『内裏』から『大里』と書き換えるようになった。読み方は引き続き『だいり』である。
現在は北九州市門司区大里となっており、『柳の御所』は現在もまさに大里(だいり)にあるのだ!
平家がそこで詠ったとされる和歌の碑も数本建っている。
『大里』
ウチナーンチュなら、『おおざと』って呼んだよねきっと😁
ここ、でーじなボスイケ南走平家重要ポインツ!
もう過去にも何度も伝えているので手短に😅
琉球の正史では、逆に源氏の為朝が琉球に流れ着いて地元の娘を娶って舜天を産んだということになっている。日琉同祖論だ。
為朝が流れ着いたのは『今帰仁の運天』、そしてどこの娘を娶った??
そう!まさかの『大里按司の妹』なのだ!!
なぜに北部の今帰仁からわざわざ最南端近い大里へ!?
そして、え”?じゅんにな!?まさかの『大里』だば!? となるわけだ!
そう、読み方は違えど『大里』である。逆説では『だいり』とも読めるわけである!
そしてビビるぜ、
大里には『舜天』の墓と伝わる普通の造形ではない『墓』がある!
しかも墓へ上がる前の石門は、以前にも載せた竜宮城型拝所のデカイ版!
ワタシ的には源氏なわけはないと考える。逆に源氏にしておいたのだ。琉球を支配した島津氏の祖とされる島津忠久は、なんと頼朝の落胤とも伝わり、島津は源氏の右腕的な存在だった。
となると、琉球に平家が流れ落ち、王族がその血を引く系統であるかもしれないなどとは決して口に出せない。
しかし歴史自体は覆せないので、平家と安徳天皇が今帰仁に流れ着き、大里按司の妹を娶った話を源氏の為朝にすり替えた!
大里にもまさかの『平良』という地名がある。
信じるか信じないかは〜
ロックンロール!!
大里の位置関係に関する大重要ポイントネタは過去ネタをご覧ください♪
E.KEMURA
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