前回取り上げた『森の川』が湧き出る『森川公園』は、県民なら結構知ってるスポットだと思います。
ただ、歴史的な意味合いよりも、心霊スポット的な場所として。。
自分もこれほどの歴史好きになる前は、やはりそれなりに噂は聞いていた。しかし、歴史を学んでいくとその誤り、というかなぜそうなってしまったのかの経緯も分かってきた気もする😁 そこも含めて。
さて!森川公園の湧水『森の川』は1725年に石積みなどが建造されたと伝えました。
このことはもう、しっかりとその場にある石碑に刻まれているんです。
石碑、どこにあるか分かりますか?
それこそ、湧水隣の皆が誤って畏れているあの石門のすぐ後ろにあるんです。
確かに事前情報で怖い印象持って近づくと、うん、まぁ怖いかもしれん😅
石門の後ろには聳え立つ山!その山はもう雰囲気的に大いに異質さを醸し出している。石門の向こうには行っては行けない空気感確かにある😅 (いや、むやみには行ってはいけません。聖地ですので)
ここで拝みをする方々も今でも少なくはない。その拝みの光景を見て、さらに変な方向へ結びつけ恐怖心を煽っているのが巷のタチの悪い噂話だ。
この山のことを地元の人たちは古から『西森(ニシムイ)』と呼び、御嶽となっている。そこはとてつもなく聖なる地であり、この石門より向こうには入ってはいけない、その境界の意味合いでこの石門『ウガンヌカタ』を建造したのだ。
そう、森の川の石積みとウガンヌカタ石門は同じ一族によって築かれた。
この一族こそが!琉球王族の血を引く名門中の名門『伊江家』である!
第二尚氏第四代国王『尚清王』の七男『尚宗賢・伊江王子朝義』を始祖とする一族で、近代でも著名人を輩出している名門である。
彼らが1725年にこの石積みと石門を建造したと石碑にしっかりと刻まれているのだ。この石碑を『西森碑記』という。
なぜ彼らが建造することになったのか? 始祖を辿ること200年ほど経った頃である。
実は石碑にも書かれているが、なんと尚宗賢の母は謝名村の娘で、その娘の先祖は奥間大親(察度の父親)であるというのだ。
そのことから、伊江家は奥間大親・察度の末裔でもあり、彼らと所縁の深い森の川を整備し石積みを建造したというわけである。
1700年代というと、1689年に王府によって提出が定められた『系図』の作成のため、自分たちのルーツをしっかりと証明して身分を保たなければならない緊張が張り詰めている時代。
そこで伊江家といえ、自分たちのルーツをしっかりと確証し、それこそ他の王族たちよりも由緒あるんだぜ、そこんとこィヨロシク!というのを示したかったのかもしれない。
それから少し話は変わるが、西森の中腹にはマヤーアブというかなり奥に深い洞窟があり、戦争中には住民の避難壕にもなった。洞窟内はかなり複雑にトンネルが張り巡り、戦後には面白半分で中に入り行方不明になる子供も少なくなかったよう。(救出された例が多かったようだけど)
そんな危険性も伴い、さらに地元の住民としては聖地に軽々しく入って欲しくない、そのような多方面からのイメージが恐怖の心霊スポットという噂を創り出したのではないかと思うわけです。
ま、考えようによっては怖いまんまの方がいいのかもしれないけどね😅
西森碑記・ウガンヌカタ:宜野湾市指定文化財
MAP: https://maps.app.goo.gl/ho3NPm5KZvDGAR7r8
E.KEMURA
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