インビジボーRYUKYU 改!世界遺産『中城グスク』、実は『ナカグスク』ではなかった!?

インビジボー改!琉球㊙︎外伝

つい先日、琉球インビジブルをリサーチしていたら、

こんな綺麗な琉球古図に出くわした!

琉球史が好きな人なら一度は見たことがあるであろう、『海東諸国記』に描かれた『琉球國之図』。

のおそらく改訂版だ。

海東諸国記・琉球國之図

1471年、李氏朝鮮(朝鮮国)の『申叔舟』という人物によって描かれたと言われる海東諸国記・琉球國之図。

これまで自分は、字のボヤけたパターンの下の古図でしか琉球の全体像を把握していなかった。

文字は漢字のみで書かれており、このボヤけ感のために読めない字も多かったんだけど、所々に『あはー!』という名称記載はそれなりに見受けられていた。

現在のグスク名称との関わりが興味深い

まずはボヤけてる方の地図で見てもらいたい。

真ん中黒塗り円の『琉球國都』というのはもちろん『首里城』

そして右端には同じく円で囲われた『国頭城』??

これが何を示しているのかは、未だ明らかになっていない。

大宜味の根謝銘グスクではないかという説が強いようだけど、個人的にはしっくり来てなくて、むしろ『義本王統系』の何かを意味しているんじゃないかと思う。後で詳しく書こう。

古図上で、今にも繋がる分かりやすい名称が、例えば国頭城から二つ左に書かれている『加通連城』、これは現在の『勝連グスク(カツレン城)』だ。

その一つ左には『五欲城』、これは『越来グスク(ゴエク城)』。

もう一つ左にいくと『中具足城』、これが『中城グスク(ナカグスク城)』であろうと。

そして一番左端に書かれているのが『島尾城』、これは『島尻グスク(シマジリ城)』。

その一つ右隣は『玉具足城』で、『玉城グスク(タマグスク城)』。

ここで『具足』って何?という疑問が出てくるよね。具足と付いてる城と付いてない城が混在してる。

え?もしかして沖縄でいう『グスク』って元々は『具足(グソク)』なの? 具足がグスクになって『城』が当てられた?

もしかしたらそうなのかも。沖縄あいういう説(沖縄方言はあいうえお→あいういう)にも当てはまるし、確かに中城グスクや玉城グスクのように『グスクグスク』という呼び方も考えてみたら不自然だ。

調べてみると、『具足』とは『甲冑(鎧兜)』のことを意味するようで、『十分に備えている様』という意味もあるんだと。

ということは、具足が付いている城は『戦力を持っている城』、『甲冑を身にまとう人物がいる城』とも捉えられないか? もしくは石高のような城の規模や優劣を測る単位の意味?

逆に具足が付いていない城は『戦力が無い城』、もしくは『戦力を必要としない城』とも考えられるのでは!?

(ただ、具足がグスクに変化していったとすると、城の機能を持たない神聖な森や聖域を意味する場合の『グスク』たちの存在をどう説明する?ということにもなる。さらに『城』は何と読んでいたのか。)

などと考えていると、かなり面白いことに気付いた!

現在世界遺産群の一つにもなっている『中城城(中具足城)』の知られざる謎へと誘う!

もしかすると、中城の歴史と呼び名までもが変わってしまうかも知れないインビジブル説だ!

中城は『ナカグスク』ではないのかも!?

これまでは、古いボヤけた琉球國之図に描かれた『中具足城』が、位置的にも『中城グスク』であろうという一般説に、なんとなくそうなのか〜と思ってた。

んでも、字の違和感は感じてたのよ。

これ、ホントに『中』に『具』に『足』に『城』かな?

他の城の『具足』と比べると、『具』の大きさや払い方が変。

字のバランスも妙だし、見ようによっては『中』と『具』が一文字の『貴』にも見えんか?とね。

そして今回、改訂版のような『海東諸国記・琉球國之図』を見つけて、その見易さから字を確認。

するとなんと!!

やはり『中具足城』ではなく、はっきりと『貴足城』と書いてるではないか!!!

『中具足』ではなく『貴足』だ!!

この古図は国文学資料なので、単なる書き間違いなんじゃないの?という見方はし難い。

ボヤけた方の古図だって、やっぱり中具足というよりは『貴足』の方がしっくり来る。

調べると『足』には『優れた人物』だとか『人』の意味もある!

高貴な人物の住むエリア。しかも兵力を必要としない城。

そうなってくると、以前のブログでも伝えた、中城こそが舜天王統の居城地だったのではないかという説にも繋がってくる!

もっと言うと、舜天王統二代目の『舜馬順煕』こと『仲順大主(同一人物説は自論)』が居城していたんじゃないかとも考える。

そう、いわば後に王となる王子(皇太子)の居城地!

その後の琉球王朝も王子が住む場所は『中城御殿』と呼ばれた。

ボスイケ『南走平家列伝』で考えてみる

ここから少し、勝手にボスイケ南走平家列伝と今回の発見を組み合わせて見てみよう。

舜天(安徳天皇)は平家と共に今帰仁の運天に上陸後、一部兵力を今帰仁に残し今帰仁グスクを築城(平郎門あり)させ、自身と本隊は島の南端まで移動し、琉球一の好立地である馬天港(馬蹄)を発見。

その馬天を見下ろす形で、大里の山頂にグスク(ギリムイグスク〜大里グスク)を築城し、大里按司の妹を娶る(ムーチー兄妹話にも繋がる?)。

ここに大里が琉球一神聖な場所となる起点がある。(大里はダイリと読め、内裏を意味する。大里には平良集落も存在する。この地を大里と名付けた。)

北と南を固めた後、両端に守られた島の中腹に中城グスクを築城し、中城を経て浦添グスクに居城した。もしくは浦添グスクは英祖系(王家防衛軍)が居城するため築城され、西側の湾一帯を防衛することから津々浦々を襲う『浦襲い』となったのかもしれない。

伊祖グスクと連なる浦添グスクとの関係にも説明がつく。

中城には二代目(息子)の舜馬順煕が、王統系(天皇系)の王子として居城した。まさに『貴足城』と呼ばれる由縁!?

だからこそ三代目の義本が英祖によって王位を奪われた時、義本は仲順大主(父)を頼って中城に入り匿ってもらった。

その後義本は、英祖系によって遥か遠い北山へと左遷させられる。

義本王の墓が国頭辺戸にあるよね。

そう、上の琉球國之図で謎となっている『国頭城』の存在とも深い関係があったのではないかと思ってもくるわけだ。

尚巴志が北山勢力(残党兵力)を懸念して、北山には監守を置いたことにも繋がる気もする。

と今回のメインの話からは脱線しまくってしまったが、

そう、中城は『ナカグソク』でも『ナカグスク』でもなかった!

『タカアシ』なのか『キソク』なのか、何と読むかまでは特定できないけど、長い歴史の中のどこかで文字の誤認が生じ『貴足』が『中具足』となり『ナカグスク』と読まれ、今でも『中城村』として存在しているのではないかと。

そういうことって〜確かにあると〜あなたと見てて〜そう思う〜♪

さだまさしの無縁坂で締めてみた。

ワワワワケンロー!!!


The following two tabs change content below.
E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
タイトルとURLをコピーしました