あ〜あ〜( ´ー`) ♪ 川の流れは〜地下〜( ´ー`)
どうも、地下アイドルならぬ地下ロッカーボスイケムラです!
うりひゃ!チカちゃんに怒られる(゚д゚)!
ワワワワワケンロー!!!
ということで、美空ひバリバリな本日もお届けしてまいりました!
チューズデーレディオーインビジブル!
今宵は那覇の神里原とガーブ川と水上店舗!
幻の神里原大通り
まず、神里原ってどこにあるか分かりますか!?
案外知らないよね。
でも神原って言えば?どこか大体分かるよね〜。
そう、与儀公園からヒメユリ通りを挟んで向かい側、開南だったり農連プラザがあるあたりに神原小、神原中学校がある。あのあたりが昔は神里原と呼ばれていて、そこからの神原となっている。
実はこの神里原、国際通りにも劣らず栄えていた時代があるのだ!
前回お伝えした国際通りの成り立ちにも大きく関わってくるんだけど、戦後まず壺屋に人が集まり、そこからほど近く小高い開南〜松尾あたりに闇市が自然発生するわけだ。
しかし生モノを扱う部分での衛生面だとか、軍からの闇商品などの問題から取り締まられて、牧志のガーブ川添いにそれこそ公の形でのマーケット『公設市場』が誕生する。
ちなみに闇市はそのまま暗いマーケットで “Black Market”
逆の公設市場は “Public Market”
ついでに公立学校は “Public School” で、私立学校は “Private School” と言います。
公設市場の誕生により、その市場へ野菜や商品を卸すための卸市場が出来、それが近年農連プラザへと生まれ変わった農連市場であったわけだ。
ちなみに農連市場や神原小中学校は元々県の農業試験場跡地。
すると開南から市場にかけての通りには人や車がごった返し、バス会社もこぞってバス停を設置し、あっという間に那覇最大の大通りとなる。これが神里原大通りの始まりだ。
現在は道路拡張整備なども行われてしまって、当時の面影はほとんど残っていないけど、元国際ショッピングセンター、今のてんぶす館から桜坂へ向かって上って行き、やちむん通りに入らずにそのまま通り沿いを上っていくと新しい農連市場、農連プラザに出る。
このやちむん通りを越えたあたりから農連プラザあたりまでが、昔は神里原大通りという一大ストリートだったのだ!
道路拡張整備が始まる前までは、現在の浮島通りと直接繋がっていたので、国際から浮島通りに入ってずっと歩き続けていたら、かなりノスタルジックな街並みが現れてきたのを覚えている人も多いのではないだろうか。
当時どれほどの賑わいだったかというと、飲食店はもちろん、雑貨、金物、美容院、薬局、芝居劇場、映画劇場、全盛期はそのエリアだけで300を超える店舗が存在していたとか。
実は皆さんご存知の、あのデパートもこの神里原に進出していた。
それが戦前までは東町にビルを構えていた山形屋であり、琉球貿易株式会社こと現在のリウボウもその波に乗りこの神里原に進出していたのだ。ちなみにリウボウはそれ以前、崇元寺町で貿易業を開業していた。
その後時代の流れを読み最も早く国際通りへ移転したのがリウボウ、当時は松尾でその後パレットに入居、それから間も無く山形屋も牧志に移転、そして大越百貨店、後の三越も国際通りの牧志にオープンする。この流れは先週のインビジブルと繋がってますね!
一見ライバルのように見えるこの三大デパート、でも実は3社ともともに沖縄の発展を願い色々な部分で協力していたらしい。しかも、国際通りには4つの通り会があって、久茂地の入り口から松尾三叉路までの国際本通り会(現国際通り県庁駅前商店街)、松尾三叉路からむつみ橋までの国際中央通り会、むつみ橋から蔡温橋までの国際大通り会、蔡温橋から安里までの蔡温橋通り会で密に意見交換なども行いながら国際通りの発展に尽力してきたという。
そういう過去もあってなのか、近年惜しまれながら閉店してしまった三越のビルを、リウボウインダストリーがどうにかこうにか維持をさせて再起を図っていますよね。ぜひ頑張ってもらって、これ以上ウチナーンチュから遠くなってしまう国際通りにならないよう願いたいですね。
デパートも次々に国際へと移転し、バスターミナルも泉崎へ移転し路線が大幅に変更されたこともあり、その後神里原は衰退していくのだが、どんどんと社交街化していき、政財界の人々が集まったり筑紫哲也さんも沖縄に来る度に通っていたらしい。
近年まではその昭和感溢れるノスタルジックな雰囲気に人々が集まるエリアにもなっていた。まだいくらか面影残ってる建物もあるので、間に合う内に見ていて欲しい。
地下を流れるガーブ川
先ほども通り名が出た浮島通り、実はもともと『千歳橋通り』と呼ばれる旧道だった。
戦後その通りに大きな浮島ホテルが建ち、次第に浮島通りと呼ばれるようになった。
もともと『千歳橋』通りだった、ということは、その通りに昔千歳橋という橋があったのだろうか?
実はあったんです、千歳橋に限らずこのエリア、めちゃめちゃ橋が多かったエリアなんです。
というのも、先ほど公設市場の時にも伝えましたが、このエリアには元々ガーブ川という川が流れており、その川沿いにマーケットが発達していったわけで、中には川の上に小屋を建てて営業する店舗もあったり川を渡るための橋も多かった。
1950年代の平和通り。浮島通りは当時の千歳橋付近(松尾交番と表示)がみられます。商売していた誰もが儲かった高度成長期。 水上店舗ができる前なのでたくさん橋がかかっています。
那覇市浮島通り会さんの投稿 2019年2月21日木曜日
しかし、大雨が降る度に川が氾濫を起こし、その度に人々は危険に晒されたわけだ。
そこで1965年、まさかの発想!なんとガーブ川に蓋をした!そう、川の暗渠工事(地下トンネル工事)を行い、川の上に巨大水上店舗まで建ててしまったのだ!
この長さが凄い!
農連プラザ目の前の太平通りから浮島通りも横切って、
国際通りに出たところで水上店舗は終わるものの、暗渠はまだまだ続き沖映通りを真っ直ぐに元ダイナハ、現在のジュンク堂ビルの後ろまで!
ジュンク堂後ろにいきなり川が現れるのを不思議に思わなかった!?
で、川に蓋をしたということは、それまで存在していた数ある橋も必要なくなり今では見る影も無くなった。
その一つが先ほどの千歳橋で他にも太平橋、新栄橋、栄橋、そしてむつみ橋などがあった。
あれ?聞き覚えない?
そう、実は橋の姿は消えても橋の名前がそれぞれの通り名として残っている!
むつみ橋なんてのは最も分かりやすく、国際通りのちょうど真ん中あたりにむつみ橋交差点がありますよね。
橋は無いのに『むつみ橋交差点』
そうです、この交差点には元々橋が架かっていたのです!今でもよくよく交差点の歩道橋見たら、モコっと盛り上がってる部分があって昔は橋だったんだなという名残が見て取れる。
現在でも我々がよく歩くアーケードのまちぐゎーの下にも、むつみ橋交差点の下にも、沖映通りの下にも実は川が流れているのだ!
しかも80年代頃まではむつみ橋交差点には歩道橋も掛かっていて、その歩道橋から水上店舗へ入れるようにもなっていた!
ちなみに浮島通りから上がっていく水上店舗3階では、私の知り合い浮島ブルーイングさんというクラフトビアーパブが元気に営業中!
結構高い場所で営業してるので、アーケードって上から見るとこうなの!?という衝撃も感じられる。
他にも水上店舗で営業されている店舗もまだ割とあるので、ちょっと階段上がる第一歩は勇気いるかもしれないけど、ぜひ足を運んで、この貴重なヒストリーを見られるうちに見ておいて欲しいなと思うわけです。
ワワワワワケンロー!!
E.KEMURA
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