探し物はなんですか〜、見つけにくいものですか〜、
それは、ボスの次なるコーナーです!
ワワワワケンロー!!今日のシェアタイムテーマが探し物みたいな感じだったんで( ゚∀゚) 心のメッセージを込めてアカペラを!
ということで、本日をもってインビジブル琉球も最終回となりますが!
最後にふさわしく!? 個人的にはそういう思いで用意してきましたけども、我々のシンボル『首里城最大級インビジブル』をお伝えしてお別れしたいと思います!
かなり個人的見解も入り込みますが、それはそれで各々がロマンを感じ興味をもってもらえればいいのかなと。
ィヨロシク!
首里城は一体誰が築城した
先週、小禄のカニマンこと泰期という人物を紹介しました。
彼は誰の弟と呼ばれてましたっけ?
そう、我らがジノーン、しかも大謝名出身の王様『察度』です。
この察度こそが、首里城を初めて築城した人物ではないかという見方がだいぶ強くなってきています。
というのも、これまで察度なのか尚巴志なのかという議論があった中、察度が建てたと言われる『高世層理殿』という高楼(高い建物)の跡、そして察度時代の陶磁器などが首里城京の内というエリアから発見され、おおよそ察度が初で間違いないだろうという流れになってきているわけなんです!
その京の内、入ってみたことある方いますか?
京とは『セジ・霊力』の意味で、首里城の中でも最も神聖なる場所だったんです。正殿に入る前には奉神門があって、門の前にちょっとした広場がありますよね。
首里森御嶽がある場所です。
ちなみに『神聖な』というのは『sacred』または『holy』を使って、Sacred place, holy area などと伝えましょう。ちゃんと神聖な場所と分かればトラブルも少なくなるはず。
その首里森御嶽の後ろ側が森になっていて、そのエリアが京の内で、現在は誰でも入れるエリアとなっています。
実はこの首里森御嶽、本当の神(本神)はこの京の内エリアに祀られていて、皆が普段に見る首里森御嶽は本神に御通しするための仮の拝所になっているとのこと。中まで実際に歩いてみると、直線上にもう一つの首里森御嶽があることが分かります。
察度は、この京の内の中でも最も高い場所に、高世層理殿を建てたと言われている。首里城自体高台にあるから、相当高いとこ好きなのかね。
そして不思議なことに、察度、そして察度の息子武寧のお墓というのは未だにどこにあるか分かっていない。
それ以前の王統だったりその後の尚王統のお墓は、伝説も含みながらにしても、どこかしらに誰々のお墓と言われる墓がある。
だけども察度と武寧には無い。ちなみに弟である泰期のお墓は大謝名にあります。
ただ、自分的にはこの説を信じたいんだけど、一説には首里城の京の内崖下に、昔から偉い人のことを言い表す『仁君主御主前(ジンクンシュ・ウシュメー)の墓』があると言い伝えられていて、
それが察度の墓ではないかという伝説がある。実際城壁の崖に古墓らしきものが複数存在しているらしい。
とすれば、確かに定説では察度王統は尚巴志に滅ぼされ首里城も陥落してしまうというストーリーだけど、もしかしたら争いではなく平和的な王権譲位で、察度の住んでいた京の内を霊的高い場所として位置付けて、察度も武寧も城内に手厚く葬ったという話も無くはないのかなと。
事実、高世層理殿があったとみられる場所下には、後に首里森御嶽と対を成す形で京の内最高級の『真玉森御嶽』が祀られているということだし、そこにある洞窟には金丸によるクーデターで追い詰められた尚徳王の妃と乳母、世子が逃げ込み、祈りを捧げたと言われる。
かつて自分たちが滅ぼした王統の住処を最高の霊場として崇めたりするだろうか?
察度の根回し力
そしてまだまだ察度のすごいところを紹介しよう。もしかしたら察度こそが三山統一を果たし琉球国を誕生させていたのかもしれないという話。
察度は宜野湾の森の川にいた天女の子と伝わるよね。
でも一方ではちゃんと出自が分かっているという研究もあって、それによると英祖王統の三代目『英慈』の娘『真銭金』に当たると。
英祖王統はすごいですよ〜!
個人的には南走平家一族が英祖王統だと思ってますけど。
舜天王統(安徳天皇系列)が滅んだ後(計画的に滅した後)、天皇の傭兵であり伊祖グスクを浦添グスクの出城として構えていた英祖一族が、満を辞して一気に島を支配しにかかる。
北山今帰仁から羽地、越来、中城、北谷、浦添は自分たちの城、そして大里や高嶺、具志頭などの南山までもを自分の子供たちに支配させて一大ネットワークを作り上げた。
もしその頃に中国に朝貢していたら、その時に琉球国が出来上がってたかもしれない。(この頃は元なので、時代的国策的に難しいかもしれないけど)
しかし長い年月を経て、同族内でも後継問題などいざこざが出てきたんじゃないかな。身内をハメるような争いもバチバチ出てきた。
ちょうどそのような時期に、牧港をうまく活用して貿易で力をつけていったのが察度。黄金伝説は夜光貝じゃないかと思う。さらに察度の嫁は勝連按司の娘、勝連はその立地条件からも分かるように貿易に関してはすでにプロ!
ついに察度は英祖王統5代目『西威』を押し退けて中山王に君臨。そこから正式に明との貿易もスタートし、快進撃が始まる。
その後より大規模な貿易を行うために那覇港をメインの港として整備し、明から久米36性を賜る。久米村のスタートだ。そして恐らくクニンダのアドバイスを受けながら首里へと遷都し首里王都が始まる。
勢いに乗る察度は、那覇港付近を今後の主要エリアとして見定め、那覇港を囲む形で小禄に弟の泰期を、そして天久に三男の天久按司を配置し整備を固める。
また、泰期は相当優秀だったのか、もしくは他にも泰期と名乗る人物がいたのか役職名だったのか、読谷村の宇座にも泰期伝説があり、反対側のうるま市天願でも天願グスクの按司は泰期だったと言われる。
面白いのが、ちょうどこの宇座から北には北山勢力の山田グスク、そして天願から北が伊覇グスクの勢力、南の方でも小禄の南は南山の豊見城勢力になっていること。英祖王統の勢力が残るギリギリのところまで領域をを伸ばしていっている。勝連グスクは察度の嫁の実家で元々連合軍。
こう勢い付いてくると、察度にとっての目の上のタンコブは北山と南山。
そこで、北山には自分の息子、天久按司を婿養子に入れ、それが後に北山王『怕尼芝』になったのではないかとも考えられる。事実、怕尼芝はそれまでまとまっていた北山勢力に急遽叛旗を翻し、北山王となって尚且つ察度の協力も得て明へ朝貢したと。
反対の南山はどうか。
察度の母親である真銭金は、英慈の娘で英祖王統の血族でしたよね。
実は彼女、察度を産んだ後に南山の大里按司と再婚して、察度とは異母兄弟の承察度(ショウサット、もしくはウフサト)という子を産んでいる。
同じ察度ですよ!?これは元々の策略なのか。母親が再婚後に根回しした作戦なのかは分からない。でもこちらもやっぱり察度の協力を得て明へ朝貢している。
もしかすると天女伝説、いわゆる母の出自を隠す理由というのはここにつながってくるのかもしれない。
ただ、承察度は後に南山王権争いに敗れて朝鮮へ逃亡している。その後察度が朝鮮へ承察度の召還を促していることも史実として残っている。
恐らく最後の最後、南山政略ここがうまくいかなかった。
そして、この時期にいよいよ尚巴志の登場となってくるわけですよ。
まずはその地盤の緩んでいた島添大里を撃破して、その後中山、北山、南山(島尻大里)を撃破していくことになる。
確かに尚巴志の妃は伊覇系で旧北山勢力でもある。なので同系の護佐丸らとともに先祖の仇討ちという形で天下統一を果たしていったのかもしれない。
でももしかすると、後一歩というところで天下統一を果たせなかった察度王統は、尚巴志に国の安泰を託し和平的に中山王を譲位したことも考えられなくはないのかなと。
それで首里城内に察度と武寧を弔い、城内に祀った。その御嶽が首里森御嶽と同格の真玉森御嶽として拝まれていくことになる。とかね。
ちなみに波上宮を建てたのも、辻村の開祖も察度の子(崎山里主)と言われている。
ここまで来ると、察度の貢献度はものすごい!大交易琉球王国に繋がるパイオニアだからね!
ということで、半分くらいは妄想も入ってますが、こうやってロマンに思いを馳せながら自分たちのルーツを学んでいけるって素敵なことだと思う♪
そして先人たちが形作ってきた唯一無二の王国ヒストリーを、どう今後の沖縄コンテンツに生かしていけるのか、どう後世や世界の人々に伝えていけるのか!
今回でコーナーは終了となりますが、もちろんこれからもインビジブルの旅は続きます!
ぜひともに琉球ロマンを学び発信していきましょう!
約3年半、お付き合いテンキューどうも〜!!
ワワワワケンロー!!
E.KEMURA
最新記事 by E.KEMURA (全て見る)
- 沖縄のウォーターヒストリーを学ぶ!『No Life No Water』 - 11/17/2024
- 豪州ゲストを沖縄戦跡ツアーへ - 11/14/2024
- コストコでも行っトコかー - 11/11/2024