Invisible RYUKYU 第122回目は『佐敷に存在した知られざるバックナーとは』

Wandering Okinawa!

今日は沖縄にとってとても大事な日、『慰霊の日』でしたね。

そんな中でどういったインビジブルをお届けしようかと結構考え込んだりもしたんだけど、あえて自分らしく、そしてこの大事な日をしっかり考えるきっかけになってもらえればという思いでお届けしました〜!

最近の県内のニュースなどでも話題になっているけど、近年の急速な開発により県内の戦争遺跡がどんどんと減っていってしまい、沖縄戦が風化されてしまうことへの危機を感じると。

確かに近年の都市部では、もう戦争の爪痕などは感じ得ないほどに発展し、ここがあの悍ましい、地獄の中の地獄と表現された戦場であったことを感じることは難しいくらいになっているのかも。

今年は戦後75年、戦後すぐに生まれた方でも75歳にはなっているということ。戦争体験者はどうしたって年々減っていく現実。我々は、その戦争体験者と直に向き合って戦争の悲惨さ、惨さを声で聴き、感情と共に次世代へ伝えていける最後の世代でもあるとも言える。

そういう責任も持ってこの5年、10年は使命感持って生きていくべきだとも思う。

インビジブルも、ある意味ではそういうとこに関連してお届けしている部分もあります。

本日の『佐敷バックナービル(ビレッジの略)』にしても、戦後そこには確かにアメリカ軍の施設があった、アメリカの環境があった、そしてそこから何がどう影響し変わっていったのか、も事実として知っておく必要があるのではないかと。

佐敷の方はもちろん、南城市に住んでる方にとっても、『バックナー』という名前はそこまで身近なものでないにしても、聞いたことくらいはあるかと思います。

実は戦後、佐敷にはバックナービルという米軍の住宅エリアが存在していました。

与那原側から佐敷に入るとすぐ、津波古交差点というY字の交差点がありますね。

真っ直ぐ行くと佐敷名物、南国感溢れる『ヤシ並木ロード』へと続く331号線。

その交差点を右に向かうと、馬天小学校や住宅街、畑が広がる道137号線へと繋がるんだけど、実はこの一帯がバックナービルと呼ばれる米軍の住宅エリアだったのです。

そして津波古交差点はそのエリアに入る入り口ということで、バックナー入り口と呼ばれ、バス停の名前もバックナー入り口という名前で存在していた。

バックナーとは沖縄戦で米軍の指揮を執った当時の指揮官の名前、沖縄戦終戦直前に戦死し現在糸満にバックナー慰霊碑がある。

最近では、佐敷の小波津自治会によってこういった過去の史実を再発信していこうという動きが見られて、所々に史跡の案内標識が建てられていて、そこからQRコードなどで詳しい内容を知ることもできるようになっている。

この旧バックナー入り口にもしっかり標識が建てられている。

で、車で通り過ぎるとほぼ気付かないとは思うけど、今でも実際にその近辺をゆっくり回ってみると、実はまだその名残が見て取れる建築物や遺構なんかもあって、なんて言うのかそれらをいざ目の前にすると、一気に歴史的現実にハッとさせられる感覚になるというのか。事実としてのインパクトがガツンと頭に入ってくるというのか。

こういうことも大事なことだなーと思うわけです。読んで聞いてという歴史だけでなく、実際に目の前に現れる事実としてのオキナワンヒストリーの衝撃度!

例えば、そのエリアには当時の住居がそのまま残っている場所もある、明らかに少し異風なというか洋風が混じったような佇まいを感じさせる古い住居だとか、

また馬天自動車学校の裏手の海岸には、当時のハウジングエリアからの排水を海に流すための排水溝の基礎となるコンクリート跡も実際に残っていて目にすることが出来る。

馬天自動車学校自体も、当時は大きな米軍の食料倉庫があった場所だという。

ちょっと余談だけど、馬天小学校の裏には、かなりリアルな巨大ドラゴンが二体も門の上に鎮座する空手道場もあり、ここも結構な見応えがある。

じゃ、なぜ佐敷に米軍のハウジングエリアが出来たのかというと、やはり昔から馬天港は県内屈指の良港としてそもそも発達しており、戦後における物資の輸送などにも適していたという部分が一つ。

さらに、戦後間も無く佐敷の丘陵地の上にある玉城の親慶原に米軍政府が具志川の栄野比から移ってきて、そこが米軍の中枢地となったことが大きい。しかも沖縄民政府もすぐ側の佐敷新里、今のユインチの辺りへ移ってきて、その当時は現在の南城市佐敷、玉城あたりがわずか3年ほどの期間ではあるが、行政の中心地だったのである。

沖縄公文書館所蔵

戦後はさらに、戦争で散乱した鉄のスクラップ事業などが最盛期を迎え、集められたスクラップがやはり馬天から輸出されたり、当時は大東島への航路も馬天であったため人口が急激に増え街が活性化してきた。

クジラを捕る捕鯨業も栄え、県の水産試験場もあった、さらに製糖工場もあれば劇場や料亭なども立ち並ぶ県内屈指の繁華街へと成長した。

そこで1960年代後半、小さなエリア佐敷に新たな居住エリアを確保するという流れで、佐敷の干潟の一部が埋め立てられて、それこそのその名の通り新しい街『新開地』が誕生するというわけなのである。

その後はやはり都市部への人口流出や人口集中があって伸び悩みの時期もあったが、今でも少しづつ伸びてはいるようで、近年ではスーパーや飲食店も増え、オシャレな街並みに人気が集まっているエリアである。

新しい南城市役所も、実は住所的には佐敷なんだよね。

元を辿れば、尚巴志のオジーである鮫川大主が三方を山に囲まれた地として住み始め、琉球を初めて統一する尚巴志を輩出した。

その尚巴志が住んでいたと言われる佐敷グスクは、地図で見るとまたびっくりだけども、三方を山に囲まれたちょうど真ん中の場所に位置していて、あの時代にこの真ん中をどう測量したのかと思うくらい。さらにしっかり伊平屋の方向を向いている。

その後も戦前戦後と様々な紆余曲折を経験してきた旧佐敷町、今後も沖縄にとってキーエリアとなっていく土地なのかもしれない。

とにかく、戦争を忘れないことも間違いなく必要なことだけど、歴史を認識してその背景にはどんなことがあったのか、どういう流れがあったのかということもしっかりと把握するということも大事だと思う。

しっかりと、我々が後世に伝えていくことを自分たちなりに学んでもいきましょう。

それもさ、やっぱりロックンロールだから!

放送後の一枚は、3人揃って Silent Prayer (黙祷)!

ワワワワケンロー!!


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E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
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