ピーピーピー ピーピーピー ピーピーピー ピーピーピー
おろくもんじゃねー!!
はい、ボス渕剛、やんばる人です(´∀`)。
ワワワワワケンロー!!
ということで、本日のインビジブルは『ロックな小禄』をお届けしましょう!
小禄のキャッチフレーズで使えそうじゃん!?
まず小禄といえば、那覇市小禄ではありますが。
小禄の方々は首里の人同様に『我々はウルク人だ!』と結構出自にこだわりを持たれますよね。ワッター那覇んちゅあらんど、ウルクんちゅど!って。もはや超人ウルク!!という感じですけど。
ま、それをいうと那覇の真和志エリアも同じで、那覇んちゅというよりは真和志んちゅ。
というのも過去を遡ってみると至極当然なことで、小禄と首里が那覇に併合されたのが1954年、真和志に至っては1957年。まだたった70年ほどにしかならないわけで、それ以前は小禄村、小禄間切という一つの立派な独立区分だったわけです。
しかも戦争によって大幅に土地を摂取され、土地を追いやられた人々は限られた土地の中でもお互い寄り添い助け合って生きてきた。そういう結束力が今でも力強く残っている地域で、門中の結びつきも非常に強いみたいよね。
そのような小禄ヒストリーの中で忘れていけないのが!
NAHA AIR BASE
小禄には戦後1970年代までアメリカ軍『NAHA AIR BASE』が存在していました。直訳すると『那覇軍飛行場』とか『那覇空軍基地』とかになります。那覇空港は『Naha Airport Terminal』とか『Naha Airport』ですからね。
その『Naha Air Base』跡地が沖縄の本土復帰後に那覇空港となり 航空自衛隊那覇基地にもなっている。 その流れで那覇空港は現在も軍民両用空港となっているわけだ。ただ、実はもっと先まで元を辿れば、沖縄戦の前に日本軍によって土地を接収され造られた小禄飛行場が原型なのである。
ちなみに、軍隊というのは『Military』だったり『Army』、『Armed Forces』と呼ばれるのに対して、自衛隊は『Self Defense Force』。字の如く『自らを守る力、軍隊』という意味。
軍人ですか?と聞くには 『Are you military?』でOK!
もし軍属であれば『I’m contractor(契約者、軍人以外の技術者)』、 民間人であれば『 I’m civilian(一般人、市民)』と答えるはずです。
その『NAHA AIR BASE』、どれだけの大きさだったかというと、これまたびっくり。
現在も当時の大きさの7〜8割くらいは空港、軍港、自衛隊基地として使われているんだけど、主に当時ハウジングとして使われていた残りの約2〜3割が返還されている。その2〜3割でこの大きさか!と思ってしまう大きさ、びっくりするよ!
それが皆さんご存知、あの小禄の新興地、ジャスコとかモノレール小禄駅、赤嶺駅とか産業支援センターとか那覇西高校とかがあるあの一帯。
大まかに言うと片方はモノレールのレール沿い、ジャスコの前の道、もう片方が331号線、瀬長島に向かう産業支援センター前の道、この両道の間全てが元ベースで、それでも全体の約2〜3割なわけです。
そこには今でもいくつか興味深い当時の名残が残っていて、まずはメインゲート。これが現在のパイナップルハウスあたりに建っていた。
産業支援センター近くのおっきなパインのオブジェが建っている建物ありますよね。その建物の後ろには急カーブの旧道が今でも残っていて、当時ここにゲートがあった雰囲気を感じられる。
そこから南向けにベースがドーンと広がっていて、今の331号線がベース内を走るメインストリートだった。後にこの道だけが先に返還されたので、両側フェンスに囲まれた道路を突っ切って南下したのを覚えてる人も多いかもしれない。
そしてもう一つのゲート、バックゲートがこの道を真っ直ぐ走った現在のマンガ倉庫那覇店の目の前にあった。しかも大通りの方ではなく中道、旧道の方。
赤嶺駅付近から大通りに出るにはすごく複雑な交差点になってるでしょ?実はこの那覇エアベースの存在が関わっていたというわけ。この通りのバス停名、今でも『第二ゲイト』!
赤嶺駅あたりには当時NCOクラブがあった。ちなみに赤嶺駅は日本最南端の駅として知られていて、駅の構内に日本最南端の石碑も建っています。
さらにこの331号線沿いには、小禄のランドマークとも呼べるような赤白の巨大タンクが顔を出しますよね。
あれは赤嶺配水池と言って、水タンクです。で、水タンクはベース時代にもそこにあり、昔から赤白で円盤みたいな形をしていた。
水タンクが置かれるということは、やはり結構標高がある場所で、逆に標高があるということはウチナーンチュにとっては神聖な丘であったわけなんです。上の毛と言ったらしいんだけど。
ということで、土地が返還された現在は、タンクの丘一帯が緑地公園となっていて、古い石獅子、シーサーとか神聖な御嶽もたくさん祀られている。おそらく未だ立ち入ることが出来ない基地内の拝所を移したものもあるんじゃないだろうか。
また、この丘の麓には戦時中に掘られた防空壕もいくつかあって、現在は閉じられてしまっているようだけど、そのような過去も持ち合わせている。
それから先ほど伝えた那覇エアベースのメインおよびバックゲートは既に存在しないものの、バックゲートからほど近い民間地にも、当時軍人向けのハウジングが立ち並ぶ一角があって、今でも通りを歩くと外人住宅が立ち並んでいる。
那覇エアベースの存在を知らないで歩くと、なんでこんな場所に外人住宅!?と思うはず。
そして外人住宅が存在したということは、その近隣に社交街も出来上がる。
それが宇栄原の新辻町とも呼ばれた『小禄新町』だ。
社交街、いわゆる特飲街が出来るという背景にはもちろん色々あって、米軍人の民間地における犯罪抑止のためでもあったと言われる。
現在も僅かにその名残が見て取れる通りがあって、スナックの看板とか建物とかもう昭和感プンプンでノスタルジー爆発!
ただ、今でこそこういう風に平和的に伝えることが出来てるけど、当時はおそらく理不尽なことだらけでも、その日その日を生きていくため必死に生活していたんだよね。
ぜひ、この僅かに残る当時の面影を今のうちに目にして、沖縄の忘れ去られてしまいそうなヒストリーを語り継いでいけるようになるといいなと思います。
ワワワワケンロー!!!
E.KEMURA
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