Invisible RYUKYU 第165回目は『遷都那覇市の神隠し!?』

Wandering Okinawa!

くめ〜バズ〜る街だ〜

って、字で書いても伝んね(´Д`)!

くれ〜なずむ〜街の〜のパロディやさに!

ということで、今夜のインビジブルは!

那覇市久米近隣エリアを紹介いたしました〜!

今年は那覇市制100周年ということで!

ナハナハせんだみつをビールも発売されたし!?

まだまだ那覇ワンダリングを紹介していきますよ〜!

ということで

早速英語レッスン!

『那覇市制100周年記念』は、

“The 100th anniversary of Naha city municipal”

と言います。municipal (市の、市営の)

せっかくなので使ってみよう!

そんでもって本ネタいってみよう!

久米村と松山

まず久米と言えば、やはり王朝時代に主に福建省からやってきた久米36性、閩人36性という技能集団でしょう。1300年代頃から琉球に学問や航海術、貿易、易学など様々な専門技術をもたらし、その後の王国の発展に大きく寄与してきた。

蔡温や程準則、謝名梨山といった三司官も輩出し、現在でも末裔の方々が多く住まわれ、近年でも県内の著名人を数多く輩出している。

その福建省の省都が福州であり、久米には福州園というチャイニーズガーデンもありますよね。まさにバズる写真取り放題なガーデンなんですが。

実は、今月から大規模修繕に入ったようで、1年くらい閉園するようです。

またパワーアップしてリニューアルオープンされるのを楽しみに待ちましょう♪

併設するクニンダテラスカフェなどは変わらずオープンしてますよ。

で、実はこの久米村全体が風水に関わっていて、久米大通りは龍の身体と伝えられています。

最も分かりやすいのが、泉崎ロータリーにある龍の顔!!高架橋上から久米大通り方面を眺めると、実際にドラゴンが現れます♪ そして西武門まで続くこの大通りが、龍のボディとされているんです。

真ん中のガーデン、二つの目と角になってるんです

さらに泉崎のバスターミナルには、仲島の大石という巨大な岩が鎮座していますが、これこそが龍の宝玉とされていて、昔から久米の方々にとってとても重要な石、それ故今でもああいう風に大事に祀られているというわけです。

そのバスターミナル、もともとは軽便鉄道の那覇駅があった場所でもあり、古くから交通の要所であった。

近年の土地再開発の際に当時の鉄道の転車台が発見されて、調査を終えた現在、転車台実物が軽便のミニチュアモデルとともに現地に展示されてもいる。

で、福州園隣には松山公園という、松山にあってすごい広々とした公園がありますね。

ここには元々松尾山と呼ばれる小高い山があって、マーチュヤマと呼ばれていたと。それが松山に変化した。この松尾山を開発した後、その一帯には裁判所、知事官舎、学校、病院などが立ち並び、行政の中心地となっていく。

しかし沖縄戦によって一帯は焼け野原となり、その後外国人住宅地が立ち並ぶエリアをなった。そこが返還されて、現在の松山公園、福州園となっているというわけである。

国土地理院写真

さらに松尾山の麓あたり、まさに現在の松山の繁華街あたりはその昔松下町と呼ばれていて、その土地の名残を表しているのではないか!?という老舗ダンスクラブが最近まで存在していましたよね。

そうです!ダンスクラブ松下!今ではナムラホールと名前を変えましたが、以前永ちゃんの沖縄ライブを観に行った時は確かまだダンスクラブ松下だったと思う♪

では、なぜそんなに昔からこの地は栄えていたのか。

那覇港と港町

それはやはり那覇港の存在なんですよね。そう、今も地名変わらぬ通堂町に始まるエリアです。

琉球王朝時代から那覇港はもう国の玄関口!人も物もそこに集中するエリアとなるわけだ。

400〜500名にも上る冊封使節団が滞在するための天使館という宿も東町にあって、後にその跡地が那覇市役所ともなる。現在は那覇医師会館となっている。

そして薩摩の琉球侵攻後には薩摩藩の在番奉行所も西町にあり、薩摩の役人たちが常駐する場所であった。廃藩置県後にはそこに県庁が置かれ、現在はその跡地に総合医療商社ビルが建っている。

で、このビル前の道路、現在でも他と比べてやけに広く感じるのだが、それもそのはず、実はあの那覇の一大イベント『那覇大綱曳』は元々、この在番奉行所前の広い道路で行われていたのだ!

県庁も役所もこの一帯に存在していた。

人が集まるから町の市場にも活気が出るし、劇場もできれば大正から昭和にかけては山形屋、そして丸山号という沖縄初のエレベータを搭載した百貨店も出来た。跡地にはホテルが建つ。

まさかの路面電車も通堂から首里まで走っていた!これはまた別ネタで紹介しよう♪

という、相当な賑わいぶりが目に浮かぶよね。

じゃ、なぜ今はその面影が残ってないのかと言えば、

もちろん戦争なんですよね。

戦争によって町全てが焼け野原にされた上、旧那覇地区は民間人が立ち入ることが出来ないエリアとなった。

そこで、人々は壺屋から始まり、牧志あたりに集まって闇市が生まれ、後にそこから『奇跡の1マイル:国際通り』が誕生することになるわけだ。

ただ、行政的にはまだ旧那覇地区を重要ポイントとしていて、戦後アメリカ軍はまず具志川の栄野比、その後玉城村の親慶原を経て、戦災を逃れた現上山中学校に米国民政府を組織する。

中央左のコの字型の建物が上山国民学校 わざと爆撃しなかったのか? 沖縄県公文書館所蔵

同じくして沖縄民政府も石川の東恩納、佐敷の新里へ移った後上山に移り、隣の天妃小学校跡に組織した。

その後、アメリカ軍の指示のもと那覇を沖縄の首都とすることが正式に決定付けられ、現在県庁のある泉崎に両政府の入居する琉球政府ビルが新築され、本土復帰を経て沖縄県庁となるのだ。

このように、もしも戦争が無ければ、もしかすると未だ沖縄の中心部はそのまま旧那覇地区、現在の東町や西町、若狭や久米あたりだったのかもしれない。

それとももしかすると戦後の状況下によっては、具志川市や石川市、玉城や佐敷だったのかもしれないことも否定は出来ない。

最後に、那覇港って言っても、どっかに旅立つわけでもないので港に入る用事がないと思う方。

実は那覇港を見て歴史を感じながら歩けるすごくいい散歩道があります。

それが『うみそら公園』から『うみそらトンネル』の換気塔、でっかいタワーありますよね、

そこの裏手に回って海沿いを歩くと、王朝時代の出島要塞三重グスクまで繋がります。

しかも、王朝時代の石積みを意識しているかのような道の造り。

もちろん対岸に見えるのは那覇軍港。三重グスクと対をなしていたヤラザムイグスクは軍港に埋め立てられて見る影もありませんが。

三重グスク

そしてそこからもずっと那覇港を横目に奥武山へと繋がる明治橋まで歩くと、那覇港の中にはポツンと元沖宮・臨海寺があったという跡碑があったり、

海の向こうには今は米軍施設敷地内で入ることが出来ない、御物グスクの姿もはっきりと見え、石門の形もはっきりと分かります。

このように、わずか100年あたり前までは那覇の、沖縄の経済の中心であった旧那覇地区、そしてはるか琉球の時代から貿易や旅の拠点として世界と繋がっていた那覇港。

すごくロマンを感じられるエリアです!

ぜひ、足を運んでみてください♪

ワワワワケンロー!!!


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E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
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