では、どのように首里城取り壊しを回避させたのか。ここにも伊東と鎌倉という男たちだったからこその大きな背景があったのです。
パート①でも述べたように、伊東忠太は帝国大学工科大学卒(現東京大学)のスーパーエリートです。卒業後には内務省古社寺保存会委員も努めていました。
いわば明治期に、県社の制定や日本各地のどの古社寺を保存し残していくかなども定める重要ポジション。
伊東はそこで培ったノウハウを全力で投入し、首里城正殿を『史蹟名勝天然記念』に登録してまずは法で保護する根拠を持たせた。
さらに修繕資金の問題には、首里城正殿を沖縄の県社・沖縄神社の拝殿とすることにより神社対象とさせ、古社寺保存法で『特別保護建造物』に指定し維持修理費を捻出させたのだ。(この辺りに龍柱向問題の本質があるような気がするけど)
この偉業により、伊東・鎌倉の二人は首里をはじめ沖縄の人間から首里城を救った大恩人として尊ばれる存在となる。
そんな折、尚典(第20代当主)夫人・野嵩御殿は、引き続き現地調査を行なっていた鎌倉にお礼を兼ねた上で、『尚家としてできる限りの協力をしていきたい。何かできることがあれば何でも仰ってください』と伝えたそうだ。
そこで鎌倉は、ぜひ尚家に伝わる伝統工芸品や建造物の記録調査をさせて欲しいとお願いをする。当時ただ若い一調査員が、尚家から調査のお墨付きをもらったわけだ。
そうして奇跡的に戦火を逃れ後世に残されていく貴重な記録資料となるのが、鎌倉・伊東によって調査された様々な戦前の琉球の記録なのだ。
鎌倉の記録があったからこそ詳細な復元が可能になった首里城、令和の復元でもまた新たな情報を取り入れ復元されるという。もちろん首里城だけではない、鎌倉が残してくれた資料のおかげで復元や修復に至った琉球からの文化財や史跡は数え切れない。
もしもこれらが残されていなかったら、我々は琉球という時代の史実の半分もイメージすらできていなかったのかもしれない。
今回大きな話題になった御後絵も、鎌倉の資料が残されていなければそれが本物かどうかの判断、それらがどの王の絵なのかの判断にもかなりの時間を要したかもしれない。
また伊東忠太が来沖した際に尚家から頂いた品の数々や、自身で買い帰った工芸品の数々も奇跡的に戦火を逃れ、戦後琉球政府立博物館が開館し県が残された文化財を探し求めた際には、伊東の息子夫婦が『沖縄の文化財は沖縄に帰るべきだ』と返還を後押ししてくれたという。その文化財を元に様々な復元作業が今も行われている。
本当に彼らは、今を生きる我々が沖縄の史実を知る、琉球の文化を理解する、琉球国という一国をイメージできるための大事な大事なピースを残してくれたわけなのだ。
ぜひ、これを機に『伊東忠太・鎌倉芳太郎』のことに少しでも興味を持ってもらい、彼らが残してくれた究極の遺産を引き続き継承していきましょう。興味を持つことこそが継承です。
⬇︎昨年首里城で開催された『鎌倉芳太郎が見た 首里城とその周辺』 写真:首里城 正殿 正面(大正11年撮影)沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵 鎌倉芳太郎資料
E.KEMURA
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