『首里城を救った男たち!伊東忠太と鎌倉芳太郎』
と題した沖縄県立博物館・学芸員講座を聴きに行ってまいりました😁
講師のプロフィール見て、
1994年生まれ
え”?? 何かの間違い?
とか思ったけど、実際に登壇されたのが若干30歳という学芸員さん!
して、その知識量と考察力と、講義の構成術、話し方、もう完璧!
ほんと2時間があっという間だった!
伊東忠太と鎌倉芳太郎が首里城を救ったという話は有名だけど、
そこに行き着くまでの、彼ら二人だけではないあまりに不思議でミラクルな彼らを取り巻く人間関係こそが、あの歴史に残る一大偉業へと繋がったんだというのは驚きだった。
伊東忠太の叔父『平田東助』という人物が時の内務大臣であり、伊東・鎌倉の大きな後ろ盾的な存在であってくれたこと。
伊東忠太は父親の反対にあい美術家への道を諦めたが、ある意味では美術道に近しい帝国大学工学部造家学科(現建築学科)への道に進み、後に内務省古社寺保存委員会をも務める。この経歴が非常に大きかったこと。後に帝国大学教授・名誉教授。
鎌倉芳太郎で言えば、香川から東京美術学校(現東京芸術大学)に進学し、その後自身の希望により沖縄に渡り師範学校女子部、第一高等女学校で教鞭をとる。
その際に沖縄の特殊な異文化や建築物に触れ、独自で記録調査を行い、美術学校に戻るとその調査を報告。この報告書に大きな衝撃を覚えた正木校長は、建築界隈ですでに広く名の知られていた伊東忠太に指導を仰ぐよう勧めたのだ。
この時、平田松堂という人物が東京美術学校の助教授であり伊東忠太の従兄弟であった。この繋がりも実は、二人を結びつける大きな要因となっていたのだ。鎌倉と伊東の年齢差は実に30歳。
満を辞して二人が沖縄調査に取り掛かった1924年、その年に驚くべき報道が発表される。『首里城取り壊し』だ。
首里城は琉球処分を経て陸軍熊本鎮台の駐屯地となる。その後首里区に払い下げられたものの、既に首里の財政では朽ち果てた首里城を修復することは不可能だったのだ。
その記事を見た鎌倉は即座に伊東の下に駆け込み、伊東は即刻内務省神社局に出向いて沖縄県庁へ取り壊し中止の電報を打たせた。というのが一連の流れなのである。
この即座の回避が実現したのは、当時の沖縄県知事が伊東の教え子であったことも大きく関わっているとのこと。
実は電報が届いた時には、既に首里城の瓦の剥ぎ取り作業に取り掛かっていたらしい。ギリギリのギリギリで回避させたことになる。
ちなみに鎌倉芳太郎が再度沖縄に訪れ沖縄師範学校で教鞭を執っていた頃の教え子に屋良朝苗元沖縄県知事がいたそうだ。
まだまだ書いておきたいことあるので、(自分の備忘録のためにも)前半はこのへんで!
*ダルビッシュ vs. 大谷は見逃せない!
E.KEMURA
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