今回読んだ『くにんだ・久米村』という本は、大筋では察度王代に琉球へ渡来してきた久米三十六世の大御所『梁氏』のルーツをその末裔が探る的な話だったんだけど、
すごいね、福州にまで渡り、しっかりその時代よりも数世代前までのルーツをも辿ることができたと。
『華僑』って世界的にも有名で、今でも華僑ネットワークがチャイニーズの強みでもあるんだと思う。
その『華僑』において、さらに自分たちの『一族』、いやむしろこっちの『一族』のネットワークの方が絆が強いんだと思うけど、もう世界中どこにいても『同じ一族=家族』的なつながりがあるんだって。
沖縄もやはりその影響は少なからず受けているんだろうね。文化的に大和式よりも中国式が残る所以なんだろう。
と、そんな中興味深いネタもいろいろあって自分の頭の中のパーツパーツがいろいろ組み合わさった部分もあったので、備忘録的にも書いておきます。
あの琉球最強政治家とも呼ばれる『蔡温』は、『中山世譜』を編纂した父親『蔡鐸』の次男だが、蔡鐸はもともと『梁氏』で『梁鐸』であったのだ。
蔡鐸の父・済民は次男であり家督継承者ではなかったが、兄・澤民は亡くなるその時に息子・應材がまだ幼かったため、弟・済民に家督を託した。済民は兄の子・應材を我が子のように育て上げたが、済民にも男子が無く、家督を應材に戻した。
しかし済民臨終の時、妻には子供が宿っていて済民卒後に男の子が生まれた。その子が蔡温の父蔡鐸(梁鐸)であった。そして今度は應材が鐸を我が子のように育てるが、應材には実子・邦翰と邦基がいて跡目は決まっていた。
一方、同時期の蔡氏九世・蔡錦には跡取りががなく、祖母が梁氏から嫁いできていたことから、梁鐸を養子に迎えたいと懇願し、それが叶って『蔡鐸』と改名し志多伯家十世となったのである。
蔡温は蔡温で、母の違う異母兄弟がいて、正室の子である自分が直径の家督継承者のはずなのに、側室の子・蔡淵が長男として登録され、そのような家庭環境ゆえに幼少期はグレていた。というわけなんです。この辺りは有名な話なので端折りますが。
このような『梁氏・蔡氏』数代に渡る家督騒動、異母兄弟騒動がもしもなければ、蔡温は後に語られるような政治家になりえたかどうか。いや、それ以前に生を受けてすらいなかったのかもしれない。
そうなると琉球史の動きは大きく変わっていたことにもなる。
そう考えるとやっぱ不思議なもんですね😁 そしてまさに歴史ロマン!
もう少しネタはあるんだけど、ちゅーやこの辺で。
ワワワワケンロー!

写真は蔡温のお墓です。
