とことん久々ロックンロール🎸!
もう日々の慌ただしさに追われて、、琉球史探訪アウトプットが疎かになっておりますが、
もちろん日々琉球㊙︎ヒストリーを追いかけ、気付いてることは多岐に渡るのですが、、
なかなかアウトプットするまでには至れず。。
琉球㊙︎外伝も今やボリューム何?まで進んでいるのかも把握できないので、もうボリュームナンバーは付けずに、小出しにアウトプットしていければと思います😅
さて早速ですが、ワタクシ的には琉球国開闢に『南走平家』説を支持しており、これまでも『南走平家』自論を数々述べてきています。
んでもって今回もふと気付いたことを紹介。
源平合戦のきっかけとも言われる『保元の乱』のことをちょいと調べていた際に、
乱の原因となった『後白河天皇』vs. 『崇徳上皇』兄弟のそれぞれの母親の『院号』に目を見張った!
二人の親王の父親は同じ『鳥羽法皇』だけども(叔父子問題は一旦置いておいて)、母親は別々で『美福門院(藤原得子)』と『待賢門院(藤原璋子)』!!
あれ?なんだか耳慣れた言葉じゃないですか??
そう!
首里城の元々の正門であっただろうと推測される、南東側の赤田御門は『美福門』と呼ばれる。

そして皆さんご存知の、首里城への入り口とも捉えられる『守礼門』の別称、というか元々の名称はなんと『待賢門』なのである!

二つの門称とも平安京の平安宮(大内裏)に設置された門に倣ったものだとも考えられるが、
それならなぜ平安宮から引用したのか? なぜ14もある平安宮の門の中から敢えて『美福門』と『待賢門』が選ばれたのか?
単なる偶然か? いや、さすがに偶然では片付けられないでしょう。
崇徳天皇から皇位を剥奪する側に立った平清盛、後に日本三大怨霊と恐れられる崇徳怨念に畏れを抱き(実際に後白河法皇の息子、孫が皇位継承を得るも早々に亡くなっている上に甚大な災難が続く。)、平家一門に対し永代的に崇徳院を祀り拝むよう言い伝えてきたのではないか。
それが回り回って、政争に巻き込まれた二人(国母)の院号を首里城の門称とすることで『祀り』としたとも考えられる?
では肝心の崇徳院への祀りは?
これはだいぶ前にも取り上げたけど、実は国頭に『すうとくの宮』と呼ばれるミステリーすぎるお宮がある。興味ある方はぜひ読んでみてください。(あ、Vol.1のネタだったんだ🤣)
『美福門』も『待賢門』の名称にも、何かしら後世に伝えるための秘められたメッセージがあったのではないだろうか。

E.KEMURA

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