なんでもないようなことが〜幸せだったと思う〜(´∀`)
ということで今週は『ロード、道』をキーワードに
宜野湾大山エリアをお届けしました♪
まず、大山といえばやっぱりアメリカンファニチャーストリート、それからターンム畑ですよね〜!
これら両極端とも言える二つが道路一本挟むだけで存在してるってのも大山の魅力ですね♪
まずファニチャーストリート!
最近でこそちょっと少なくなっている気もしますが、一昔前までは本当にあの58号線大山エリアは道挟んで両サイドとも家具屋さんや雑貨屋さんが軒を連ねていて、アメリカンな中古家具だったり雑貨を楽しむことができましたよね。
それはもちろん、近隣のベースから買い取ったものを軍払い下げという形でリペアなどして売っていたということですね。
軍人とて、わざわざアメリカから持ち込んだ家具や現地で買い揃えた大型家具などをまた持って帰ろうとは思わないだろうし、売って帰った方が多少の小遣いにもなるしね。そういうマーケットが成り立っていたストリートだったんだよね。
今でもその名残、雰囲気は見て取れる。
そしてターンム、以前にも宜野湾の湧き水インビジブルでお伝えしましたが、宜野湾には確認されているだけで100もの湧き水が存在しているらしい。ちょうど宜野湾の土地が階段状の丘陵になっており、雨で地中に染み込んだ水が固い岩盤の層に沿って地上に湧き出て来るのが湧き水になっていると。
なので特にその丘陵の麓となる宇地泊、大謝名、真志喜、大山、伊佐などでは今でも数多くの湧き水が湧き出ている。
ということで、その一帯はその昔、農作業に非常に適した場所であり、あたり一面水田が広がる地域であったと。伊佐あたりは県内でも有数の美しい田園風景だったみたい。伊佐は戦後の土地強制接収、伊佐浜土地闘争の場としても有名ですね。
その昔の宜野湾農産地の名残でどうにか今でも残っているのが、大山の田芋畑になるわけだ。宜野湾の田芋は昔から有名で、琉球王朝時代には宮廷料理に使われるほど貴重な貢ぎ物だったという。
その田芋畑も現在は深刻な後継者不足や耕作地の減少などで生産力がだいぶ落ちてきているらしい。
せっかくの宜野湾の特産であるターンムが消失してしまう危機にまで陥っている。
田芋の生産を途絶えさせないためにも、そしてあの田園風景や貴重な自然の生態系、豊富な湧き水を枯れさせないためにも、ぜひこれを機に大山のターンムに興味を持ってもらって、もっともっとスポットを当てて盛り上がってもらえたらと思う。
真志喜にある森川公園は、それこそ『とびんすはにんす』の『はにんす』、天女のはごろも伝説の地として知られている場所。
奥間大親という農民がある日仕事終わりに森の川で休憩を取ろうとしたら、天女が水浴びをしていて羽衣が木に掛けてあったと。その羽衣を隠し持って、天女が困っているところに自分も探してあげるからと助け舟を出し、しばらく家に身を寄せる間に子を授かる。その子ども、謝名ムイこそが後の察度となり民衆からの大きな信頼を受け中山を治める中山王にまで登りつめるという話。
で、この森川公園、結構な高低差のある公園で、一番上まで登るとコンベンションエリア一帯が見渡せるすごく景色のいいスポット♪ さらに反対側目の前には普天間基地のフェンスが横たわり、すぐ目の前に異国がある異様な雰囲気を味わえる。
1月頃には公園内に咲き誇る桜の花も見所♪
その森川公園すぐ隣にあるのが『宜野湾市立博物館』
そこまで大きな博物館ではないけど、展示物が面白い! しかも入場料無料!
上にも述べた『宜野湾の湧き水群』についての詳細、湧き水の原理、目で見て分かるジオラマなんかが展示されていて非常に興味深い♪
湧き水に関連することだけど、湧き水が出るところには地下の鍾乳洞が大きく関わっている。
宜野湾にはこれだけ湧き水が多い、ということは地下にはかなりの規模の洞窟、鍾乳洞が張り巡らされていると言われている。市内には確認されているだけでも130以上のガマがあるとも言われている。
また、市全体のジオラマ模型や昔々の航空写真も展示してあって、その新旧の比較だけでも十分に楽しめる♪
さらに、展示物の中でも一際目を引くのが、戦後偶然大山あたりの地中から発見されたという軽便鉄道の『台車』部分。
宜野湾には当時、大謝名駅、真志喜駅、大山駅があったという。
特に大山駅では、宜野湾で収穫されたサトウキビを嘉手納の製糖工場へ運ぶために賑わったという。
と、宜野湾58号線沿いには58と並行して走る2本の中道がありますよね。
一本はそれこそターンム畑の前を通る旧道、これが実は軽便鉄道が走っていた道になります。湧き水群もこの道沿いにいくつも見受けられます。
そしてもう一本が58挟んで逆っ側を走る、通称『パイプライン』
これが面白い!
まず、パイプラインとはなんぞや?
実は、その名の通りもともとパイプが通ってたライン、道路なんですね。
戦後、沖縄県内にはアメリカ軍の基地が朝鮮戦争やベトナム戦争に向けて急ピッチに整備され始め、戦闘機などへの燃料輸送のインフラ整備も進められました。
どこからどう運ばれてくるかというと、那覇の軍港に着けたタンカーから中部の嘉手納空軍基地まで輸送しないといけないわけですよ。
それで那覇から嘉手納までパイプラインを敷いて、パイプ伝いで燃料を輸送する必要があったわけです。
軽便鉄道の軌道跡もすでに整備されていた道として有効に使われたみたいね。
浦添のパイプライン沿いには当時の鉄道跡と石標が残ってますよね。
軽便鉄道がどう通っていたのかも知ることができる♪
もともとは地上にパイプが剥き出た状態で敷かれていて、そのパイプの横に整備用としての道が敷かれることになる。
すると、その道が一直線だし便利だし次第に地元の人間も使うような道路となり、しまいにはパイプの上に板を這わせてその上を歩くというクレイジーな事態まで起き出した。
そうなるとパイプの破損やオイル流出事故も起きるようになってきて、パイプを道路の下に埋めようということになり、そのパイプが埋められている道路のことをパイプラインと言うようになった。
地中に埋められた以上、パイプの整備や管理をするには所々にチェックポイントを設けないといけない。
それが以前パイプラインの道路の上にあった四角いセメント作りのボックス、『バルブボックス』なんですね〜!
しかしあんな狭い道路に3m四方のセメントブロックが置かれているわけなので、車を対面通行させるにはかなりの障害物となっていたよね。しかも事故もそこそこあって、オイル流出で海までオイルが流れていくこともままあったらしい。
そのバルブボックスも1990年までには全て撤去されて、見たことない人、記憶ない人も多くなっているんでしょうな。
名前の由来である物が無くなっても名称は残る。今後もなんでここはパイプラインって言うの?と言う質問は大いに出てくると思うので、歴史も振り返りながら教えてあげるといいかなと思うよ♪
という話でした(´∀`)
放送後の一枚は!
ロードを歩く3人♪ ワワワワケンロー!!!
E.KEMURA
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