インビジボーRYUKYU 改!琉球大里列伝② 古代都市大里の北には、まさかの佐敷尚巴志と繋がるミステリーが!

インビジボー改!琉球㊙︎外伝

さてサクサクっと大里列伝の続編を書いていきましょう!(あくまでも自論です)

前回、東風平の位置関係によってよりハッキリと確信した、

大里こそが首里王都以前の、いや浦添王都以前の古代琉球都市だったのではないか!という説を唱えてみました。

これまでにも幾度となく『大里王都説』を述べてきてますが、今回、その大里を取り囲む周囲の位置関係が、より一層その信憑性を増してくれた!と。

案外、説得力あるんじゃない?

この琉球国之図を見ると、よりリアリティが増すよね♪

琉球国之図  沖縄地図を左に寝かせた状態。右端が糸満、喜屋武の『喜』。左端には『越来』の『越』とか『北谷』の『北』

確かに地球を基準とした方位制度は無視することになるけど、昔は自分たちの身の回りの基準(グスクとか)を元に方向軸を取り入れて生活していたと思う。

その事例もいくつかあるので後ほど紹介するのと、なぜこの方角で地図を描いたのかも気になる。

あれ?この場合、地図の上(北)に来るのは十二支の干支で言えば『辰(龍)』だ!なんとも意味深!

そして本題。上の地図にて、中央上部の青い部分が『大』で大里、そしてその下に『南』の『南風原』、左の茶色い部分が『西』の『西原』、さらに右の茶色い部分が『東』の『東風平』である!

東風平は、首里のだいぶ『南』にあるのに何故『東』なんだという謎にも、ピッタリと答えがハマる!

そして西(原)、南(風原)、東(風平)の位置関係がピッタリハマるのは、この方向軸以外他にない!

だとすると、大里の北に当たる場所だけがはっきりしない。

地図上だと『佐敷』か『知念』だ。

佐敷馬天と尚巴志一族の存在

佐敷といえば『尚巴志』の出身地と言われる。

後に大里グスクにも居城する琉球史のヒーローだ。(やっぱり大里が絡む)

しかし、そもそも尚巴志のルーツが伊平屋で、祖父である鮫川大主が伊平屋島から追い出されて本島に流れ着いたというストーリーは釈然としない。

そのストーリーを模倣するかのような尚円王の伊是名説はもっと謎だ。

元々伊平屋も伊是名も合わせて『伊平屋間切』だったわけだし、血縁関係も無い二人の後の国王が揃って伊平屋からやって来たことになる。これはさすがにね〜。

個人的には後付けストーリーだと思っている。特に尚円王はね。

ただ、尚巴志のルーツはもしかしたら伊平屋に移り住んで来た渡来人で、その後祖父である鮫川大主が佐敷に移って来たのでは?という可能性はあるんじゃないかと思う。

というのも、佐敷の地形!

あれだけ綺麗な山河襟帯(クサティ:腰当:周りを扇状の山に囲まれた地形)を織り成す地形は、県内ここ以外に無いのでは!?と思うほどなのだ!

その強力な地形の有用性をすでに知識として知りつつ、佐敷を探し当てたという可能性。

となると、あれだけ小さな島、伊平屋出身とは考え難い。大和の匂いもしてくる。

伝承では、鮫川大主が伊平屋を出る際、とある古老に『海を目の前にして山に囲まれた土地を探しなさい』と言われたそうな。ん〜、後付けくさい。

しかし個人的には別論で、その頃すでに大里は古代琉球の都市として発達しており、大里の最重要港である馬天(佐敷)の按司を託されたのが、伊平屋に一種のルーツを持ち有能者だった尚巴志の祖父、鮫川大主だったのではないかと思ったりする。

鮫川大主があまりの美男で、大里隣の大城グスクの娘に見初められたという話も、ルックスあり能力ありというウチナーンチュを超えた!?異彩ぶりを匂わせる。

佐敷には、鮫川大主に関する『伊平屋神』と呼ばれる御嶽があることから、伊平屋ルーツなのは確かなのかもしれない。しかし、この御嶽が別称『ヤマトゥバンタ』と呼ばれていることは非常に意味深。

または、鮫川大主はすでに有力者として大里グスクに仕えていて(もしくは大里系身内説もあり?)、佐敷按司を任され徐々に力を付け、その孫が激動の三山戦国時代に大里を拠点として三山統一を果たすというストーリーもアリだなとかね。

その説だと、中山王の察度を大里連合軍と取れる可能性も出てくるし、察度の腹違いの兄弟だと言われる南山王『承察度』の存在も辻褄が合ってくる気もする。

『承』には受け継ぐの意味もあるし、察度は同じ察度だぜ?

『承』と『尚』も全くの無関係なのか?なんてのも勘ぐってしまう。

巴志の巴は、尚家の『巴紋』の巴にも繋がる?とかね。

この辺りはまだまだ探求していこう。

このように大里のノースポイントが佐敷説だとすると、大里の出城的な立ち位置、港城下町として栄えた重要ポイントだったとも言えるのではないか。

佐敷=北を表す意味は今の所見つかってないけど。

もう一つ言えば、

佐敷の『馬天』は地名ではなく、湾エリアの総称である。

加えて、佐敷の重要な御嶽の一つに『馬天』ではなく『場天御嶽』がある。

鮫川大主の居住跡と言われている。(土砂崩れによって元の位置からは移動しているが)

この馬天と場天から、あ、何かしら天に纏わる地名なのかなと思っていたら。

実は先に述べた佐敷の地形、山に囲まれ海湾がコの字状に広がる得意希な地形、

これってあの、、、

『馬蹄』の形そのままではないか!!

そう!まさかのロックンロールアイテムにも欠かせない『ホースシュー』だ!!!

馬天も場天も、おそらくは『馬蹄』から来ているのではないか!?

すでに外交貿易も活発にしていただろうから、稀に見るこの素晴らしい地形を見て『馬蹄』と呼んだ外国人(もしくは大和人)がいても全然不思議ではない。

大里グスクの出城、ミーグスクから馬天を眺める。まさに馬蹄(ホースシュー)!

その神がかった地形を大里の北に据える、となれば、大里の『北』の重要性がよりすんなりと入ってくる気がする。

伊平屋にも南走平家説の重要な足跡が

と、伊平屋の話が出たのでちょっとだけ寄り道。

尚巴志のルーツに限らず、舜天王統を築いた『あの集団』(自論)、大里グスクを始めとする古代グスク郡を築いたと思われる『あの集団』は、大和から伊平屋経由で今帰仁の運天へ流れ着いたのでは!?とも思うのだ。

伊平屋の漢字を切り分けてみると

『伊』『平』『屋』

そう、ボスイケ南走平家説で散々伝えてきた『平家』の『伊』と『平』が共にしっかり入っている!

もう地名に暗示を掛けてるとしか思えない。

大里北方位を『知念説』とすると、まさかのあの聖地が!

話を戻して、大里の北には一体何がある!?

という疑問に対し、佐敷ではなく、もう一つの北側(大里基準)に存在する『知念』にスポットを当ててみると、、

これまたスゴい偶然なのか必然なのか、

強烈な事実が見えてきた。

というところで、

今日はこの辺にしておこう。

あまりに書くことが多くて、

まさかの第三弾へと続く!

ワワワワケンロー!!!


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E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
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