海の声が〜樹木〜希林〜(´∀`) お化けのロックンロール!
ということで〜!
今週もやり切って参りましたインビジボー琉球〜!!
今週までは旧大里村!
今日のネタはちょっと妄想が飛躍し過ぎて、公共のラジオ電波に乗せるべきかどうか迷ったほどだけど、ちょっとでも大里に興味持って訪れてみてくれたり、琉球の歴史に興味持ってくれたりしたらそれでいいのかな♪ と、少々ぶっ飛んだネタを放り込んできました♪
信じるか信じないかはアナタ次第!それもまた歴史が持つロマンだからね♪
それではブログでも追いかけ発信してみましょう〜!
まず、結構メジャーな琉球歴史ストーリーとして、琉球王統の始まりと言われる『舜天王』に纏わる為朝伝説がありますよね。
大和の源平合戦、『保元の乱』にて破れた源氏側の源為朝が琉球に流れ着き、運を天に任せて辿り着いた場所が今帰仁の運天だったと。
そこから大里按司の妹と恋仲になり、二人の間に生まれたのが『尊敦』、後の『舜天王』となるわけだ。
加えて言うと、その後為朝は二人を残して大和に戻り、残された二人が為朝を待ちわびたガマが牧港にあるテラブガマで、そこから待つ港、待ち港、牧港になったと。
ここで出て来ましたね、『大里』。
『大里按司の妹』と。
なんでわざわざ大里なのか? 今帰仁から大里は結構な距離あるよね。
82kmだって(^^;
と、ここで一旦為朝の話は置いておいて、実はもう一つ源平に関する琉球との伝説があるので紹介しましょう。
それが『南走平家』伝説。
読んで字の如く、南へ走る平家なわけだ。
天皇の皇位継承争いによる『保元の乱』のあと、内分裂のような形で源平による戦はより激しさを増していく。為朝の時には源氏が負けたんだけど、その後はあの源頼朝、義経兄弟の大活躍あって平家が押されに押されていくわけだ。
そこで平家は、苦し紛れにも天皇しか持つことの許されない『三種の神器』を源氏側に渡すまいと持ち出し、さらに当時まだ若干5〜6歳であった安徳天皇という幼い天皇を引き連れて退陣を図る。
兵庫、九州、四国と逃げ回るんだけど、九州では太宰府の他に現在の門司市のあたりを一時拠点地にしていた。
関門海峡を目の前にする港町だね。
そしてその市の一部に、戦前まで『大里(だいり)町』という町が存在していた。
そう、大きい里と書いて大里(おおざと)ではなく『だいり』。
実はこの大里、元々は『内裏』(天皇の住む御殿)から来ているらしい。
そう、安徳天皇がこの地で仮の御殿ではあるけども実際に住んでいたということに由来しているわけ。
今でも旧大里町には『柳之御所神社』という神社があって、境内には安徳帝柳御所という石碑や、平忠度(ただのり)、平経正(つねまさ)が読んだという歌碑もある。
大里町、南城市の大里、そして天皇の御所、ここ重要なんで覚えておいてね。
その後、遂に追い詰められた平家は、壇ノ浦にて源氏との最終合戦に応じるわけである。この合戦については、実は海上戦を相当得意としていた平家にも勝算があったが、味方からの寝返りなどいくつもの要素が絡み合って形成逆転。
平家は遂に負けを認め、次々に武士達も海に身を投げて平家の最後を迎えるわけなんです。
なんと、安徳天皇も自身の祖母である二位の尼(平清盛の正室)に抱き抱えられ海へと身を投げ最後を迎えることになる。
その際、安徳天皇は幼きながら祖母に『我々はどこへいくのだ?』と聞いたところ、『もう最後を迎える時が来ました。波の下にも都はあります。』と伝え三種の神器を抱え入水したという。
その後、その魂らを弔うべく下関には赤間神宮という神社が建てられ、安徳天皇の御陵および平家一門を祀る墓石も並んでいる。
その赤間神宮で一際目立つのが、水天門という楼門。
この門を見て何をイメージする?と聞けば、おそらく大半の人が『あ!竜宮城っぽい!』と答えるんじゃないでしょうか?
実はこれ、安徳天皇が水の神様『水天大神(すいてんおおみかみ)』として祀られたことに由来するとのこと。
で、話を南走平家に戻します。
平家滅亡にはいろんな伝説があって、全ての平家がそこで自害したとは考えにくい、結構な人数が自害と見せかけて逃げたのではないかとも言われている。
それを平家の落人というんだけど、北から南まで全国各地に落人伝説が語り継がれている。
そう、ここ沖縄本島、そして宮古・八重山、奄美諸島もご多分に漏れず。で、この南方へ落ち延びた平家を南走平家と呼んでいるんです。
先にも述べたように、平家は海上戦を得意とし船の操縦に長けた軍団ということからも現実味を帯びる。
ここに琉球ロマンが誕生するわけなんですよ〜。
まず、沖縄には平良性が多いよね。特に宮古には。
さらに平という文字が付く苗字、平敷、饒平名、平仲、波平などなども多い。
しかも、平家の活動拠点であった京都の平安京に関わる苗字も多い、平安、平安名、平安山などなど。もっと言えば『京都』は『みやこ』とも読むよね。
そして平良という地名もすごく多い、宮古の平良はもちろん、首里、豊見城、名護(田井等)、東村、うるまの平良川などなど。
名護の羽地・田井等に至っては、羽地按司地頭の羽地朝秀が敢えて源氏の目を避けるように平良から田井等に変えたという曰く付きのタイラ。
そして実は大里にも平良があるんです。
果たしてこれは単なる偶然なのか?
で、大里にはかなり特徴的な形をした御嶽がいくつも点在している。おそらく大里以外には見られない形なんじゃないかと思うわけ。
なーんでこんな形してるんだろう? なんで大里なんだろう? なんで為朝伝説も大里なんだ。と思いながらこの不思議な形状を眺めていると、
も、もしや!!!この形って、
まさかの竜宮城!?
見ようと思えばそう見えるんじゃない!?
もしかしたら、大里にやってきたのは源氏ではなく安徳天皇を引き連れた平家だったのでは!?
ここでとある仮説を立ててみた。
その当時、おそらく1100年代に何者かが運天から琉球へ上陸してきたのは確かだろう。
『おもろそうし』にもしっかりと、『うんてん』に『ヤマトの軍現る』と出てくる。
それがもしや南走平家集団だとして、上陸直後に源氏の追っ手を阻むために北山に要塞今帰仁城を築城していたとしたら。
今帰仁グスクは何故か北を向いて建てられており(北には海しかない。内戦を見越すなら内陸に対面してグスクを建てるはず)、しかもメインゲートの名前はなんと『平郎門』!
その後安徳天皇と側近たちはすぐさま南下して、港の機能(馬天)も持ち合わせた南の果ての高台にグスクを築城。
そう、そのグスクを建てた土地こそが、先ほどの九州の柳御所がある『大里』と同じ漢字を当てた『大里』。天皇が住むための御所。島添大里グスク。
それから大里の各地に水天大神を崇めるために、竜宮城を模したあの形状をした御嶽群を建てた。
実はその御嶽の一つには『ギリムイ御嶽』という御嶽があって、今でも地元の人々に大事にされている御嶽なんだけど、その歴史やどういう意味を持つのかはまだはっきりとは解明されていないらしい。しかし、そのギリムイという文字にまたハッとするわけだ。
我々がよく言う幸せを運んでくれる海の向こうの桃源郷『ニライカナイ』は、漢字で書くと『儀来(ギライ)』もしくは『儀来河内』と書くと言われている。
『儀来』のムイ(森)で『ギリムイ』とは考えられないだろうか??
『水天』とされる安徳天皇が、海を介して逃げ延びられたことに感謝し、海の神様、竜宮の神様へ祈りを捧げていた場所だったとしたら!?
もしくは安徳天皇自身を海の神様、竜宮の神様として人々が祈りを捧げていた場所だったとしたら!?
さらに!
みなさんの心の拠り所、首里城の形、あれ、ほぼほぼ竜宮城じゃない?
しかも至る所に龍が存在している!竜の宮の城!
最後になるけど、安徳天皇は『水天大神』として水の神様として祀られることになったよね。
水天、なんか妙に聞き覚えあるよね。ウチナーンチュには特に。
そう、歴代の琉球の王様は『首里天加那志』と呼ばれる、しかも最初の王と言われるのは『すいてん』に聞こえがかなり近い『舜天』、神号は『そんとん』!
そして首里のことを今でも『スイ』と呼ぶウチナーンチュ。
ギリムイ御嶽すぐ側にある『食栄森御嶽(いいむいうたき)』という場所には、舜天の墓と伝えられる墓も存在している。
北中城仲順にも舜天、舜馬順煕、 義本の墓なる『ナスの御嶽』という御嶽があって、そっちもそっちでかなり風変わりな墓だよな〜と以前から思ってたら、、なんと平家の墓とも似てる!!
この未だ解き明かされぬ舜天王統の歴史が、その後の英祖王統、察度王統の流れにも大きく関わっていくようにも感じる。
これらは果たして偶然で片付けられるものだろうか。
信じるか信じないかは〜
アナタ次第!!
あくまでもワタクシ個人の勝手気ままな見解です。
放送後の一枚は、浦島太郎の図!
ワワワワケンロー!!
E.KEMURA
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