Invisible RYUKYU 第22回目は世界遺産『玉陵』にかけられた呪い

Wandering Okinawa!

はいさいロックンロール!!!

みなさん台風は大丈夫でしたか!?

なんだか夜の間にゴー!!っと駆け抜けていったような台風でしたね。

おかげで月曜は午後から出校する学校があったり、全休だったりで悩ましい一日になったようですね(^^;

火曜じゃなくて良かった〜(´∀`) by ブルゾンちえみ、って自己チューか(`ロ´)!

そんな火曜日、昨晩のFM沖縄、インビジブルリューキューも聞いてくれましたか〜!?

あい、感動のワールドカップの余韻で聴くのわしっちょーたん、という方、ラジコでどうぞ♪

さて、先日のInvisibleも、先週に引き続いての那覇の日特集! 7月8日の那覇の日にはいろいろと無料入館できる那覇の施設があるよという中からお伝えしました。

その中でも今回は、世界遺産にも登録されている首里城近くにある尚王家代々の墓、『玉陵』を紹介!

1501年、尚真王が父である尚円を祀るために建造されたという陵墓ですね。東室が王、妃が眠る部屋、西室が家族関係者、真ん中の部屋は一定期間遺体を安置しておく場所だそう。その後洗骨するのね。

第二次大戦で大ダメージ受けるも、1974年から77年にかけて修復し、2000年に世界遺産に登録される。

IMG_3918

こちら、細かく伝えると第二尚氏の中の、さらに限られた人物、いや、むしろ数人を除いた王家のお墓とお伝えした方が分かりやすでしょうか。

そのへんのミステリーをちょこっと紹介しましたね♪

なにせ、云い伝えを守らなければ『祟りがある』という呪いまでかけられている陵墓であるのですから。

そんなこんなで昨日の放送も、うらみまーすー、うらみーまーすー、という中島みゆきの名曲をおどろおどろしくワタクシの歌い出しでコーナー始めさせてもらいましたからね(´∀`)

この陵墓を見守っている獅子も特徴的

この陵墓を見守っている獅子も特徴的

まず、軽く琉球の歴史をおさらいすると、1429年、尚巴志が琉球史上初の三山統一を果たし琉球王国が誕生する。

その後、尚巴志の息子、そして孫たちが国王を継いで第一尚氏は60年以上継続することになる。

しかし、かんなり割愛しますが、その後クーデターとも取れる、何者かの策略ともとれる一大事件が起き、第一尚氏時代最強の王府側近であった『金丸』が王族系統以外から初の国王になる。第二尚氏の始まりである。(このへんまで書くとあと3時間ほど執筆しないといけなくなる。また別の機会に1ネタとして取り上げますね〜♪)

その金丸は、琉球が世代わりしたことによって中国との関係が悪化することを避けるため、自らをそれまでと同じ王家の『尚』という名字を充てて『尚円』と名乗る。

実はその金丸には、遠い昔に伊是名から供に連れ渡ってきた弟がいた。金丸が王府側近で活躍中には彼も役人として頭角を現していた。

で、金丸が国王になった際には彼は越来間切を任され越来王子となる。

また、話し変わるが金丸が尚円として国王にならんとするそのころ、彼にはだいぶ歳の離れた妻がおり、その名を『オギヤカ』と言った。

この時すでに尚円は50を越える高齢であり、王位6年で他界。その後に大きな問題が起こる。金丸自身も身を以て体験してきた国王お世継ぎ問題である。

当時尚円とオギヤカの間には幼い子供がいた。後の『尚真』である。しかし当時はあまりに幼なかったため(12〜13歳だったと言われている)、王の跡継ぎには早すぎると言うことで、上記にも述べた尚円の弟が周りから強く推され『尚宣威』と名乗り王位に就く。

しかし、即位後半年経ったころの王位を継承するための儀式の際に、神事を司る女官たちがその儀式の最中に、一斉に『王になるべきは尚宣威ではなく、尚真であるべきだ』と歌いだした。

もちろん何者かの策略、おそらくはオギヤカの陰謀であろうというのが大方の説。考えてみれば分かりやすい。せっかくこれだけの、1民間人から成り上がって国家最高級のポジション『国王』にまで登り詰め、ここから自分たちの王家の血筋を繁栄させていこうというところ。どうしても自分の子、尚真に継がせたい。

例え義理の弟であろうとも、万が一のことがあってその後の王位継承系譜が義弟の血筋へ移ってしまいかねない、こんな危険な継承をやすやすと認めるわけにはいかない。と。

そう、この時代の神事は絶対、神のお告げなのだから。オギヤカはそこに目をつけ女官たちをコントロールしたのであろうと。

結局、尚宣威はこれがきっかけで王位を退き尚真が幼きながらも王位に就くことに。

王位を奪われた尚宣威は失意のもと越来に隠居し、今でも越来にお墓がある。一旦は王位に就いた人物なのに玉陵には入れていない。

しかし、幼少である尚真がもちろん国政を司れるはずも無く、オギヤカが実子尚真に変わる実質的な権力の支配者として長くに君臨することとなる。建前上は尚真王が自身の父親である尚円を祀るために建てさせたと言われる『玉陵』も、実はオギヤカの指図だったであろうと言われている。

この世の支配に留まらず、あの世にまでも手を伸ばし、神事的な信仰心も煽りながらその後の末永い支配力を保とうとしたのかもしれない。

ただその甲斐もあってなのか、実際、尚真王は歴代国王の中でも最長の在位期間を持ち、いろいろなことに着手した。役人のハチマキの色を決めたり、かんざしの種類を決めたり、何より地方按司を首里城下に住まわせ武器も取り上げることで国家に対する反乱が無くなった。

またオヤケアカハチの乱も制し離島制圧にも乗り出している。そういった結果、この時代には穏やかな王国を築くことに成功している。ここにまでも、もしかするとオギヤカの影響力があったのかもしれない。

と、実はオギヤカミステリーはここで終わりではなく、更に面白い史実がある。

少し話を戻して、尚宣威叔父さん(尚宣威は、尚真の父の弟なので叔父さんにあたる)まで遡ってみよう。

実は尚宣威には娘がいて、時代背景があってこそであるけれど、なんとこの娘は後に尚真と婚姻関係になるのである。叔父さんの娘との結婚、従兄弟同士の結婚である。オギヤカは怒っただろうね〜(^^;

そして、その二人の間に子供が生まれ、その子が『尚維衡』なのである。

自然な流れであれば、尚真が没した後には、尚真の長男、この『尚維衡』が次に王位に就くはずなのだが、またもやオギヤカの策略によって王位継承ならず、尚維衡の弟、『尚清』に王位が渡る。この尚清とは尚真と後妻との子供にあたり、尚維衡とは異母兄弟。尚宣威の血は入っていない。

なんとなく匂ってきました??

そう、オギヤカは夫である尚円との血筋以外の血が王家に入り込むのを徹底的に抹消したかったのである。それが夫の実の弟、尚宣威の血筋であってもだ。

なので尚宣威の血が通っている、尚宣威本人、尚宣威の娘、そしてその子である尚維衡(父親は尚真)、王位継承の系譜ではあるはずなのに、一切玉陵に入れていない。(後に例外を伝えます)

そしてここにオギヤカの決定的であり徹底ぶりさが現れている事実がある。

玉陵敷地内にある石碑にこう書かれていてるのだ。

『この墓に葬られるべき人々は尚真王他8人のみである、この書き付けに背くならば、”天に仰ぎ、他に付して祟るべし”』と。

今でも現存しているんです、呪いの石碑

今でも現存しているんです、呪いの石碑

まぁ、今では70人前後の遺骨が玉陵内にて確認されているらしいけれども、この尚円・尚真の血筋であることは守られているよう。

しかし、唯一例外として葬られているのが実は先ほど名前が出た『尚維衡』。

尚維衡の弟である尚清は、親のいざこざはあれど異母兄弟という関係であれど、尚維衡を実の兄のように尊敬していたんだろうなと思うわけです。王位に就くはずだった兄、しかし権力争いで剥奪され、兄を通り越して自分が王に就いてしまった申し訳なさもあったのかもね。

オギヤカの呪いの文言に気もくれず、尚維衡が亡くなり玉陵ではなく浦添ようどれに葬られた後、その遺骨を玉陵に移し今も玉陵の中に眠っているということ。

中に葬られている厨子甕のそれぞれも説明書きとともに写真で紹介されいる。

中に葬られている厨子甕のそれぞれも説明書きとともに写真で紹介されいる。

それからもう一人、歴代王の中の尚寧王も玉陵ではなく浦添ようどれに眠っているけども、実は尚寧はこのいわゆる尚円系首里尚家の血筋ではなく、尚宣威を元とする浦添尚家の血筋であると。

尚寧王の前の王、尚永王に男子がいなかったため、その娘婿として家系に入っていた尚寧が王位を継ぐことになった。

歴史上は、尚寧が王位時に琉球が薩摩から侵略され制圧を受けてしまったということがきっかけで、それを恥じて玉陵には入らなかったという説が流れているが、実は上記のような理由でもともとの地元である浦添の地に帰りたかったので、浦添ようどれに眠っているという説も有力なよう。

いわゆる娘婿という立場だったわけで、血縁内にて骨肉のお世継ぎ争いもあっただろうし、こいつらとは同じ墓には入りたくないという想いがあったかもというのは十分に理解できるよね(^^;

で、やっぱり尚寧王のその後も王位継承で様々な問題が起き、王府内でも内部抗争や親薩摩派と反薩摩派が出てきたり、それをうまく利用したり裏でのやりとりがあったりなどなどしたそうな。

もうそこまでいくと派閥争いのヤクザ映画みたいじゃんか。。

ということでね、歴史には例外無くこのような世継ぎ問題であったりクーデターなどはつきもので、物事が単純ではなかったこと、そしてそういう1つ1つの史実があってこそ今があるということを理解していきたいものですね。

長々となりましたが、それほどまでにこの『オギヤカ』という人物が琉球の歴史の中でものすごいキーパーソンになり、時代を動かした人間であったということを伝えたかったんです。

言わばオギヤカの呪いの碑文、それがその後の琉球の歴史をも動かした、とも言えるわけなんですね〜!

おもしろい、けれども恐ろしい! というお話でした。

ん〜琉球ヒストリーってやっぱりマンダム!!

放送後の1枚は、呪いのポーズ! って幽霊のポーズだしが!

ワワワケンロー!!!!

IMG_9160


The following two tabs change content below.
E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
タイトルとURLをコピーしました