ラジオでは時間の関係上伝えられなかったんだけど、まだまだ佐敷には面白いネタがいくつもあるんです♪
ということで、今回はラジオ漏れしてしまった佐敷ネタをブログにて紹介♪
まず、佐敷を代表する偉人と言えば、やはり『信ちゃん』こと『津波信一』か『尚巴志』ですよね(´∀`)♪
その尚巴志の祖父である『鮫川大主』が伊平屋から佐敷にたどり着き、定住したと言われている。
その鮫川大主自身は結構謎も多き人物で、祖先は本土由来ではないかとか、元は南山の出ではないかという説もある。
というのも、前回お伝えした場天御嶽(御嶽は馬天ではなく場天となっている)の中の伊平屋神という御嶽が、昔から通称『ヤマトバンタ』と呼ばれていたとか。(台風の崖崩れによって、昔の位置からは移動している)
ヤマトとはもちろん、日本のことだよね。そう、ヤマトを拝むための場所であったとも。
尚巴志はその佐敷で幼少期を過ごし、馬天港を巧みに活用し力を付け仲間を集め、当時は比較にならないほどの勢力を誇っていた隣の島添大里グスクを、あろうことか一気に攻め落としてしまう。
そこからの快進撃も前回にお伝えした通りである。
中山を撃破し、北山を撃破し、南山をも倒して三山統一を果たす。
その当時の北山王はあの『攀安知』なわけで、攀安知が所持していたとされ戦の後に尚巴志へ献上された名刀『千代金丸』は今や国宝に指定されている。
その北山平定に伴い、尚巴志軍は攀安知の息子2人とその母親を人質として佐敷に連れて帰ったのであった。
それが攀安知三男の外間子と四男の喜屋武久子、彼らは人質として捉えられ佐敷の津波古で過ごすことになるのだが、その後中国に渡り勉学に励むなどして琉球の文化向上に大きく貢献したと言われている。
その子孫たちが今でも津波古にはたくさん住んでおられて、今でも北山出の誇りを高く持ち、門中の絆もとても強いという。
その外間子と喜屋武久子に纏わる外間子の墓、喜屋武久子の墓、そして喜屋武久子の殿が今でも佐敷・津波古に存在し子孫達によってすごく大事にされているのである。
それからもう一つ尚巴志の兄弟に関連する史跡も存在し、かなり興味深い。
尚巴志には4人の弟と1人の妹がいて、尚巴志が三山統一後には弟達にも各自領土を与え地域の監視などにも当たらせた。
その弟の1人である末五男『手登根大比屋』の逸話が佐敷の手登根に残っており、それが『フッチャー石』という、かなり独特な形をして地面に刺さったままになっている細長い石なのである。
伝承の一つには、手登根大比屋が明国から持ち帰ったという説。もう一つには、手登根大比屋が「アカバンター」という手登根集落後方にある丘陵上から投げて、現在の位置に突き立ったという説なのだ(^^; ハルク並だな。
他にも船が流されないようにつなぎとめておくための石であっただとか、船のバランスを保つためのバラスト石の役目をしていたのでは、などの説もある。
埋まっている部分も含めると全長が190cmもあるらしいので、天然物では無いのは確かだろうね。
というように、史跡にも富んでいて琉球ネタにも事欠かない、由緒ある佐敷!
南城市役所も佐敷の地に完成したし、つきしろ区はこれからの可能性が半端ない。南部東道路も開通すると、ほんとのほんとに大化けする可能性あるよね。
今のような古風な風景やバックナーの面影が全く見られなくなる日がもしかしたら来るのかもしれない。
しっかりと今のうちに訪れて、何かを感じてもらえればと思います♪
区長からのお知らせでした〜(´∀`)
ワワワワケンロー!!
E.KEMURA
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