Invisible RYUKYU 第45回目は『松山公園〜袋中上人~儀間真常』

Wandering Okinawa!

ハイサイワケンロー!!

ようやくボス・イケムラの腰もだいぶ良くなってきて、毎週火曜のワケンローレディオにもひさびさに髪の毛を上げて出演してきました!!

って、ラジオだから顔とか髪とか見えんどーや(・o・)??

という話も分からないでもない、んだけどもだっけど(´∀`)

今やこういう時代だからね、放送後には写真も撮ってツイッターにも上がるわけだし、自分もこうやってブログとかにも載せるわけだし。

何よりやってる本人が髪上げるか上げないかで、その日のテンションにも関わってくるからね♪

ということで! 今日もバリバリッとやってきましたよ〜!

聞き逃した方はこちらからラジコでどうぞ!

さて、そんなこんなの本日のインビジブルネタは、先週の福州園となりにある『松山公園』を取り上げてお届けしました♪

福州園も実は大きな括りで言えば松山公園の一部のようで、その公園に至るまでの成り立ちがなかなか興味深いんですね〜。

しかも今でもちょいと不思議な雰囲気を持つ公園で、公園の中にカー(湧き水)もあるし、あんな那覇の中心なのにテニスコートあったり昭和感バリバリな遊具があったり。

昔から使われてきたカー(湧き水)もある

昔から使われてきたカー(湧き水)もある

那覇の一等地にあるのに、この緑!

那覇の一等地にあるのに、この緑!

県内最大の夜の繁華街『松山』のすぐ裏にある公園なんだけど、繁華街から一歩入ると夜だとちょっと不気味なくらいの鬱蒼とした公園なんだよね。

で、この一帯の過去を調べてみるとかなり興味深い。

実はこの公園は先週に『福州園ネタ』で述べた際の『浮島・那覇』の中核を成した松の生い茂る丘陵地であったと。

当時は松が生い茂る土地は総じて『松尾山』と『マーチュヤマ』と呼ばれたらしい。

そこから転じて『松山』へ。

で、琉球王朝時代はこの松尾山は久米村の所有だったとされ、明治に入って土地整理事業により県の土地となった。

その頃から松尾山の開発が始まり、戦前は小学校、裁判所、知事官舎、病院などなど公的機関が数多く位置する都心であった。

しかし戦争によって壊滅状態に破壊され、戦後その跡地に那覇商業高校、そして米軍ハウジングが建設された。

今の福州園、そして松山公園は1977年と言うつい最近まで米軍住宅地であったのです!!

1977と言えばワタクシ生まれ年なので、ちょい先輩方あたりであの近辺で遊んでた方はよく覚えてるんだはずね〜。

いくつか写真も残っていて、びっくりするよ(^^;

その後1977年に再度沖縄に返還され、そこから今に至る公園事業が開始される。

道路挟んで那覇商業側に松山公園、そして向かい側に福州園がオープンすることになるのである。

で、松山公園、ホント那覇の中心街も中心街にあってなのにすごく広い公園なわけね。

歩き回ってみるといろんな発見がある。

で、一つ名前に見覚えのある石碑が建っているんですね。

その名も『袋中上人行化碑(ぎょうげひ)』

袋中上人というのは、磐城国、福島出身の僧侶。

50を過ぎて中国へ学ぶ為に渡る事を決意し、実際に中国へ渡るのだが時代のいたずらか上陸を拒否され琉球に流れ着いた。

その後琉球で時を待とうと滞在すると、浄土宗の普及に当たり、『ただひたすらに念ずることで救われる』という教えがすごく分かりやすい説法だったとの話で、時の琉球王『尚寧』や一般民衆からも大いに慕われ、尚寧によって桂林寺(けいりんじ)を建立受け賜る。

その寺の建っていた場所こそが今の松山公園内だったというのだ。

そしてその袋中上人こそが!!何を隠そう『エイサー』の生みの親と言っても過言では無い僧侶であるのだ。

エイサーの起源は本土の『念仏踊り』と言われていて、この袋中上人こそがその念仏踊り(じゃんがら念仏)を浄土念仏と供に琉球へ伝えたと言われているのだ。

琉球にはもともと自然そのものをご神体として崇める神道が存在し、なかなか仏教の教えが伝わりにくかった。がしかし、念ずるだけで救われると言う袋中上人の教え、そして念仏踊りという動きのある教えは庶民にも浸透しやすかったとも言われている。

さらにさらにこの袋中上人の愛弟子には、琉球はおろか、日本全体を飢餓から救ったとされる『甘藷(サツマイモ)』を世に広めた琉球の産業偉人『儀間真常』がいるのである!

野国総監が中国から持ち帰ったという甘藷を儀間真常が試行錯誤の上栽培技術を確立して琉球各地に普及させ、飢餓から多くの民を救った。

その逸話はすぐさま薩摩にも渡り、薩摩でも甘藷は大きく普及し飢餓から多くの人々を救う、そして薩摩から江戸へも渡るが悔しいかな『サツマイモ』という名で広く知られるようになり、天明の大飢饉からも多くの人々を救った奇跡の植物なのである

さらに儀間真常は薩摩から木綿を持ち帰り、栽培に着手し琉球絣の基礎を築く、またサトウキビの製糖を始めたのも儀間真常と言われている。

この儀間真常の『人々のために』という信念は、おそらく袋中上人の影響、教えがあってのことだと思われる。

そう考えると、袋中上人が中国上陸を拒否され、琉球へと流れ着いていなかったのならば、儀間真常という男と出会っていなかったのならば、ものすごく今の沖縄とは違った沖縄になっていたのかもしれない。

やはりヒストリーというのは奥が深いし面白いね!!

ということで、今夜は松山公園に隠れたヒストリー〜袋中上人と儀間真常という話題でお届けしました!

100%片思い〜(´∀`) イモ欽トリオでイモ食ってプー!

放送後の一枚は、ハイスクールララバイのパクリで『いい子悪い子ふつうの子!?』

手と足が合ってねー!

手と足が合ってねー!

オリジナルこれ!

オリジナルこれ!

ワワワケンロー!!!


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E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
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