放課後〜超校庭を〜走る君がいた〜(´ー`)
急げー!
どうも、村下孝蔵で『初恋』ならぬ『はよ来い!』でした。
ワワワワケンロー!!
ということで、今夜のインビジブルもまさに明後日!市制100周年を迎える『那覇』から、那覇の始まりと言っても過言ではないんじゃないかと思える『長虹堤』についてお届けしました〜!
学校の校庭じゃないよ、エンペラーの皇帝でも無いよ、長い虹の堤と書いて『長虹堤』
こちらを今回お伝えしていきましょう!
那覇に海中道路があった!
これまでも何度かお伝えしてますが、その昔、那覇は浮島という離れ島で、那覇に向かうには海を渡らなければならなかった。
なので冊封使などもまずこの浮島に入り、浮島にある天使館に滞在し、海を渡って首里まで通っていた。
となると、毎回大勢の使節団を送迎するのも、逆に首里から必要な物資を毎回島まで届けるのも大変な作業となる。
そこで一つの対策として、島から陸まで何十叟もの船を並べて船の上を歩いて行き来をしていたりもしたという。
やっぱそれでは大変だということで、尚巴志の子供の一人、尚金福王の時代に、龍潭も造成したあの懐機に命じて島までの海中道路を整備させた。
これが『長虹堤』なんですね〜。当たり前だけど、だいぶ難工事だったようで、神様に願掛けをしたりだとか、人も亡くなってしまったりしたとか、ようやくもようやく完成した時には、その感謝として那覇側に長寿宮と長寿寺というお宮とお寺を建てたという。これが後に浮島神社となるわけなんだけど、それはまた別の機会に。
ここで琉球史上初めて那覇と本島がコネクト、それ以降双方の行き来が容易となり、那覇も久米村だけでなく日本人も琉球人も移入してきたりと、どんどん栄えていくことになる。
ただ、この長虹堤という名前は、橋が通った時に付いた名前ではなく、それからしばらく経って冊封使節団の一人である胡靖という人物が、まるで長い虹のようだと例えたことから長虹堤と呼ばれるようになる。
まさに!ウチナーレインボーブリッジーやさー!沖縄にもレインボーブリッジあいんどー!と自慢しましょう。もしくは、そこに立って、室井さん!レインボーブリッジ封鎖できません!いや発見すらできません(`Д´)!と叫んでみましょう♪
そうなんです、実はその長虹堤、現在は周りも埋め立てられているためその当時の姿を見ることがほぼできません。
しかし、ごく僅かに名残が残っている場所があります。
そちらを琉球ゴーストストーリーとともにお伝えしましょう。
十貫瀬と潮渡川の幽霊
長虹堤、元は王朝時代の海中道路で、崇元寺から美栄橋を通って現在の松山あたりまで約1kmほどの距離で結ばれていた。分かりやすく言うと、現在の久茂地川に沿って通ってたイメージ。
崇元寺から目の前の崇元寺橋を渡ると川沿いを走る大きい道がある。ただ、この道路は割と後になって整備された道で、そのもう一本中の道、見た目的には裏通りのような道があるんだけど、この道こそが長虹堤跡の一部でそこから美栄橋駅あたりまで残っている。
この道は別名『十貫瀬通り』とも呼ばれて、復帰前あたりまではものすごく賑わいのある社交街だったらしい。現在でもどうにか当時の名残が見える建物があったりもするけど、賑わってた様子は窺い知れない。
ちなみに去った15日には、沖縄の日本復帰49周年でしたね。
そこで、沖縄復帰を英語で言うと
Reversion of Okinawa、もしくは Okinawa’s Reversion と言います。
Reversion というのは復帰、元に戻るという意味があって。
Reverse の派生語ですね。車のバックギアはR、これもReverse 逆転する、逆向きのという意味からきている。
この細い通りをそのまま南へ進むと、元ダイナハ、ジュンク堂目の前の沖映通りに出る。美栄橋駅もすぐですね。
美栄橋は長虹堤があった時代から長虹堤のちょうど真ん中くらいにあった石の橋で、その当時から美栄橋と呼ばれ重要な橋だった。
現在美栄橋駅の下の広場には美栄橋を改修したことを示す王朝時代からの石碑も建っていて、実はここにも長虹堤の名残がはっきり見て取れるスポットがある。
その石碑のある広場は前と後ろを新しい道路と古い道路に挟まれているんだけど、その道路に不自然な段差があるんだよね。上写真の step by step 前の道路、段差あるでしょ?
この段差こそが、古い長虹堤跡と新しく埋め立てた土地の境目になっている。上の道路が元の長虹堤。
さらに!そのジュンク堂と美栄橋駅の後ろには、これまたなんでこんなところに!?という位のこんもりとした小山が潜んでいる。
実はもともとこの小山は海に浮かぶ小島だった、この島の浅瀬を中継する形で長虹堤が造られたという分かりやすい名残。他にもその付近にいくつか小さな丘が存在するのも同じ理由。
で、この小島の岩ことを十貫岩、十貫瀬と呼ぶことから十貫瀬通りとなったと。
十貫瀬の由来というのは、その昔一人の男がこの小島の麓で休憩をしていた時、岩の上に十貫(お金)を置き忘れてしまったと。しかし数年経って立ち寄ってみたところ、十貫がそっくりそのまま置かれたまんまだったとか。それで人々が十貫瀬と呼ぶようになった。
また、この十貫瀬には7つのお墓が並んでいると言われていて、七つ墓とも呼ばれる。そのお墓にまつわる幽霊話があって、その昔、この十貫瀬付近のとあるお店に一人の女が毎日飴を一つだけ買いに来たんだって。
だけども、朝になるとその払ったお金がウチカビに変わってしまうと。それで店主が気になって女の後をつけて行ったら、このお墓の中に消えるように入って行った。びっくりした店主が中を覗くと、すでにこの女性は亡くなった状態で横たわっていて、赤ん坊が抱きかかえられるように飴を舐めていたと。
それで気の毒に思った店主が赤ん坊を引き取り連れて帰ったところ、それ以降女は現れなくなったと。
この十貫瀬の後ろにガーブ川が流れていて、ガーブ川にかかる橋には十貫瀬橋という名前が付いている。欄干もカッコ良くて、昔のお金の模様が施されている。
で、美栄橋で安里川から枝分かれした潮渡川という川が58号線を横切って若狭まで流れ、この間紹介した若狭の夫婦瀬公園まで続いているんだけど、58号線に掛かる橋の名前が『潮渡橋』と言って、ここにも幽霊話がある。
詳細は割愛するけど、この橋の上で川に向かって仲西ヘーイと叫ぶと、叫んだ人は神隠しにあったりマブイがを抜かれたりするらしい。
だから外国人と一緒にあの辺歩くとか、フィンガー5の学園天国なんか歌いながらあの辺歩くと危ないよ!
いつ仲西さんとすれ違って、ヘイ!仲西って言っちゃうかも知れんからね。
ということで、王朝時代の道路跡を踏みしめながら、那覇市100周年を祝いロマンを感じてみてはいかがでしょうか♪
ロックンロール!!
E.KEMURA
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