せっかくなんで『屋取(ヤードゥイ)』の話をもう少し。市民講座が始まればもっと深くしつこくお伝えしますが😁
実は『屋取』の語源はコレだ!という確証は未だなく、一般的に言われているのが、
地方に移り住んだ士族が、まずは百姓の土地や畑を借りて生活したことから『宿る』を語源に『宿り』、『屋取』となったと。
そこで容易に想像が付くと思うが、それまでは首里・那覇で士族として百姓からの年貢で食って生きてきた者たちが、いきなり地方に移り住んで農業の知識ゼロで開墾に励んでは失敗したり、やむなく百姓に頭を下げて畑地を借り小作人になったりしたわけで。
でも心の内ではいつか都へ返り咲くんだ!という信念を持つ。
百姓の方も百姓の方で、都の士族が何を今さら。できるもんならやってみろ。小作人として使ってやるのはいいが、滞納なんぞは絶対に許さんぞ!というような関係。(中にはすぐにいい関係性を築けた例もあったかもしれないが)
そんなもんだから、どうにか自分たちで村建てというとこまで出来たとしても、本集落との関係性は想像通りだ。
お互いの村同士での結婚なんてとんでもない!という関係。そもそも百姓の村同士でも、ある村の娘が別の村に嫁ぐとなる場合、村の違約金的な莫大なお金(馬手間)を払わないといけないような時代。
そんな関係性なもんだから😅
長い歴史を経てきたところで、そう簡単にほぐれるものでもない😅
今でこそほとんどそのような関係を見ることはないけど、昭和あたりまでは宜野湾 vs 長田、神山 vs 愛知みたいな構図があったみたい。宜野湾に限らずね。
その中でも顕著なのが『神山 vs 愛知』であり、戦後新たな行政区再編が行われた際、双方が合併する行政区名をどうするかで揉めに揉めたあげく決まらず、最終的に1区から数えて19番目の行政区だったという理由で『宜野湾市19区』となったのだ😅
その『19区』がようやく『愛知区』となったのは、なんと2012年!その際にもすったもんだがあったらしいが。
宜野湾市民であれば『19区』の方が未だ馴染みあるんではないだろうか😅
ただ、宜野湾市区民対抗なんとか大会!とかっていうのにおいては、やはり反骨精神からなのか、屋取集落が優勝をはじめ上位を独占するということが目立っている。
E.KEMURA
最新記事 by E.KEMURA (全て見る)
- 沖縄のウォーターヒストリーを学ぶ!『No Life No Water』 - 11/17/2024
- 豪州ゲストを沖縄戦跡ツアーへ - 11/14/2024
- コストコでも行っトコかー - 11/11/2024