ちょっと待って〜プレイバックプレイバック
尚寧王にプレイバック! プレイバック!
チャーラーラーラ ジャカジャン(´∀`)!
ロックンロール!
ということで、本日は『尚寧王パート2』 by 山口百恵
でお届けして参りました〜!
いや、そんなことより、あゆみさん、オキワンTシャツテンキューどうも〜!!
もうロックンロールレディースかと思ったさーや(´∀`)!
ダーさんも毎週のOkiWanTシャツ着用&宣伝テンキューです!!
しっかり売っていきたいと思います!
みなさんィヨロシクワワワワケンロー!
ということで今夜のインビジブルはね、なかなか同じネタを二週続けてというのはあまりないんだけど、
先週のあのまんまの終わり方じゃ、
あ〜あ〜尻切れの〜トンボよ〜(´∀`) という感じになってしまうんで、今週まで尚寧王でお伝えさせてもらいました!
浦添市美術館の尚寧王展も今週末まで開催されてるんで、ぜひ、インビジブル聞いて気になった方は足を運んでください!
では少しだけ先週のおさらいも兼ねていってみましょう!
まず先週、尚寧王という第二尚氏第7代の琉球国王は、いわゆる首里直系の首里尚家という血筋ではなく、第二尚氏第3代の尚真王の長男だけど『王』にはなれなかった尚維衡を始祖にした浦添尚家の血筋であること。
故に他の王と同じ玉陵ではなく、浦添ようどれに眠っているのでは!?という話をしました。
ちなみに血筋というのは、そのまんまの『Bloodline』、子孫は『descended』と言います。
しかも浦添からのまさかの大出世で王になったのに、時代は激動の荒波で、薩摩と日本に揺さぶられ、遂には島津軍によって琉球侵攻を許してしまう時の王になってしまったと。
先週はこのあたりまで話ししましたね。聞き逃した!という方は、、ラジコはもう間に合わないと思うので、ぜひボスブログで再チェックしてみてください♪
最近では、ヤーチューバーやさに!?も始めてみてますので♪
ィヨロシク !で、今日はその続きからです!
秀吉に制圧された島津は、逆に生き延びるために秀吉に忠誠を誓い、戦果を上げるために他のどこ藩よりも戦力を上げて次々と戦に挑みます。そしてついには秀吉から朝鮮出兵へ繰り出すと聞かされ、そこでも戦果を上げるべく士気を高めようとします。
しかしここで問題になるのが財政面。度重なる戦で兵力を出しっ放しの挙句、最終的に九州一体を制圧され藩の財政はすでに火の車。
そこで島津が自らの起死回生のために目を向けたのが、琉球だったわけなのです。したたかだよ〜。
『おい琉球、秀吉さんがお前らにも兵力出せって言ってるよ。朝鮮から明まで叩くらしいからさ。さもないと潰すって言ってるよ〜。怖いよー?』
『いーやいやいや、ちょっと何言ってるか分かんない( ゚_ゝ゚)ノ。明はウチらの親みたいなもんですよ? そんな戦に加担するなんて出来るわけないっしょ?』
このレベルのスタンスだったはず、当初は。
『いやいやいや、マジやべーよ、そんなこと言ってたら。マジワンパンでやられちゃうよ?オレ達のやられ具合見たっしょ? あいつらパねーから。言うこと聞いた方がいいよ。』
『え、、、え、マジ?? んなこと言っても、、やっぱ無理っしょ。(え、、まさか明さんもやられたりしないよね。ちょっと怖いけど。いや、先に明にチクっちゃおう〜っと)』
『だったらさ、マジに戦うのは勘弁してってオレ達からも言ってやっから、その代わり米7000人の10ヶ月分用意しなよ。それで仲裁してやっから。じゃないと、もう俺たちがワンパンしちゃうよ?』
『いや、だから無理っしょ〜って。もうしょーがねーなー、実はアンタ達が大変なんだろ?分かった分かった、じゃ、その半分出すよ。それで解決な!』
と半ば強引に議論を終了させる。
このやりとり、王府内でも賛否両論あり親日派・親明派で大揉めしたという。
さらにあの『謝名親方』が大方の主導権を握り、薩摩に対しても堂々とやりあっていたと。尚寧王も謝名親方・鄭迥には全幅の信頼を寄せ、異例の久米村からの三司官抜擢をせしめたほどの人物だったのです。
だが実はこのやりとりが後々に尾を引いていくことになるんだけど。
結局、その後秀吉による朝鮮〜明への出兵は長期戦に及ぶも結果を得られず、その間に秀吉は死去。
変わって徳川が権力を握りだすわけだけど、島津はここでもまた不運に陥っちゃうわけなんだよね。
今度は関ヶ原の戦いで徳川の敵軍である石田軍に加勢し、またもや敗戦側へ。。
しかしここでも持ち前の交渉力で島津家破滅まではま逃れ、徳川へどうにか詫びを入れて藩体制を維持。
ここにこそ現代まで繋がる名門『島津家』の波乱万丈サクセスヒストリーがあるんですね〜!
徳川権力となってからも、島津の財政はもちろん厳しい。いや、さらに厳しい。
そこでやっぱりどうにか目下の琉球を支配したい!そうすれば領地も税収も労働力も手に入るし、異国を制圧することで他の藩に対して自分たちの威厳を高めることができ、一気に名誉挽回を計れる!
と、色々難癖つけては琉球を自分たちの支配下に置こうと試みる。
しかし時の家康としては、秀吉の時のように武力に薨じて支配するのではなく、明との外交貿易復活を求めるため穏便に進め、富を増やしていきたい思惑があった。そこで琉球をうまく利用して明との外交を再開させようと企み、島津にもその方向で進めるように進言する。
それでも琉球は頑なに拒否を続ける。
そんな最中、実は他のいくつかの藩も琉球侵略を狙って家康に話を願い出てもいたらしい。
特に因幡藩(現鳥取県)は出陣間近まで進んでいたとのこと。もし島津でなく因幡が琉球を攻めて来ていたら、これまた歴史は大きく変わっていただろうし、今の沖縄ではなかったかもしれないんだよね。
ゲゲゲの沖縄になっていたかもしれない。
そんなやりとりがしばらく続き、他の藩に奪われる危険性も感じていた島津が流石に業を煮やし、最終的にどうにか家康に許可を得て琉球侵攻へと踏み込むことになっていくのであった。
『おい琉球、もう待ったは限界に来たぜ。制裁許可も取ったし、攻めにいくからな。嫌なら奄美をよこせ、それからすぐにこの間出せなかった米の肩代わり半分と借金を返せ!』
もちろんそんな要求聞き入れられない。しかし今回は本気で来てしまった。それまでの様々な鬱憤も積み重なって、実際の武力行使に至ってしまったというわけなんですね。
そこから島津軍は一気に奄美、徳之島を制圧して今帰仁の運天に到着、この運天には為朝伝説があったり、尚巴志が北山侵攻の際に北山の按司たちを集結させた場所でもある。
そして島津軍はその後読谷の渡具地海岸から大部隊を上陸させそこから首里へと南下させる、この渡具地も、後の沖縄戦でアメリカ軍が上陸して来た場所でもあるのだ。
実は当時ここの防御が行き届いてなかったから、琉球軍は島津に敗れたとも言われている。
実際に、那覇港では謝名親方率いる琉球軍が、現在も一部のこる三重グスクと対岸のヤラザムイグスクの間に鉄の鎖を掛けて船の侵入を阻止し、かなり応戦した。
しかし応戦叶わず上陸を許してしまい、島津軍はそちらのFM沖縄がある小湾あたりで作戦会議を開いていたと言われている。
そして読谷からはメイン部隊が首里をめがけて南下してくるわけだ。
その最後の砦となったのが、首里の平良にある安謝川に掛かる太平橋、平良橋であった。
しかし戦力の差はやはり大きかった。というより鉄砲隊の存在に屈したといっても過言では無いだろう。
皮肉にもこの太平橋も、尚寧王が王となった際に、地元浦添と首里の行き来をしやすくするために整備した、あの中頭方西海道の一部だったのである。
さらに皮肉なのは、この橋は、これまた沖縄戦でも同じく読谷から入ったアメリカ軍の南下を妨げるために日本軍によって破壊された橋でもあるのだ。
近年、その太平橋の石橋跡が発掘されて話題にもなりましたね。
その後首里城は陥落し、尚寧王は城を明け渡し三司官、家臣とともに薩摩へと連行されてしまう。
薩摩から江戸にも上り、途中静岡で家康にも謁見。家康は予想に反してすごく丁寧に尚寧王を迎え入れたという。そこには恐らく、これからも外交貿易の中継ポジションとして、外見上は一つの別の国としてうまくやっていってくれよという思惑があったのかもしれない。
そんな江戸上りの道中に、尚寧王最大の理解者であり、頼りも頼りにしていた弟の尚宏(具志頭王子)が静岡の地で病に倒れなくなってしまうという悲劇にも出会いました。ただ、尚宏の亡骸は現地の方々によって手厚く葬られ、今でも尚宏のお墓は静岡の興津の寺に存在している。
そしてこれも何かの縁なのか、現在静岡の楽寿園という市立公園では有名な菊まつりが開催されていて、今年は首里城正殿や守礼門、園比屋武御嶽が菊で再現されているという。
と、このような2年にも渡る連行軟禁状態を強いられた上、帰国の条件として出されたのが、今後全ての琉球の行動は薩摩の管理下に置かれる、今後一切島津には逆らわない、などという理不尽極まりない誓約書を突きつけられる。
最後までそれにサインしなかった謝名親方は、そこで惨殺されてしまうこととなるわけだ。
尚寧王としても、ここに来て選択の余地はほぼ無いものの、琉球という国の存続のためにはどこで何をどう落とし所にすべきかを考えに考え、自分が犠牲となって国民を守り抜く。
そうすればきっといつかまた、輝かしい琉球王国を再建できる!
そう思って尚寧王は降伏に至ったんではないかと思われるわけです。
もしかすると浦添を背負い、浦添尚家という看板を背負ってきた尚寧王だったからこそなのかもしれない。とも思えたりもするんですね。
今の世の中、国が分断されたりさ、国民を捨てて亡命するという国のトップがよく取り沙汰されるなか、カッコいいじゃんウチらの国王!
実際、その後は実質的に中国と日本の狭間でのらりくらりと諸問題をうまく交わし続けながら、冊封使や慶賀使といった双方との交流を続け、文化や技術、勉学も取り入れ、そこから組踊や三線といった芸能も生まれ、泡盛や黒糖などの生産も始まり、有能な政治家や芸術家も育ち、まさに琉球独自のアイデンテティー、唯一無二の多彩な琉球ルネッサンスを確立していく時代へと突入していくことになるんです。
色々な見方があるとは思うけど、時代の王が尚寧王だったから、謝名親方が頑なに朝貢を拒んだから攻められたという見方だけではなくて、
逆に今の時代だからこそ彼らの琉球に対するアイデンティティーの深さ、琉球愛を見直してみて、今の自分に置き換えてみるのもいいのではないでしょうか?
ここまで聞けば、尚寧王が自分を恥じて玉陵に入ることを避けたのではなく、やはり浦添という土地で穏やかに眠りたかった、という方がしっくり来るのではないでしょうか♪
実は奥さんの阿応理屋恵、言わば首里尚家血筋の流れだけど、彼女も当初は王妃たちが眠る首里の天山陵に葬られていたけど、のちに浦添ようどれへ移されて二人仲睦まじく眠っているんだとか。
ぜひこれらの史跡にも足を運んで、浦添と尚寧王のロマンに触れてみてください
一説には、実は尚寧王は首里の山川に眠っているのでは!?説もありますが、それも機会あればお伝えしましょうね♪
ワワワワケンロー!!!
放送後の一枚はもちろん!!
リモートではあるけども、初の三人揃ってOkiWan Tシャツ!ロックンロール!!
また次週もィヨロシク〜!
ワワワワケンロー!
E.KEMURA
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