コロナ禍に合わせた学びのインビジブル、今回も続けてまいりまーす!
今週は、その強烈な熱血漢と男気溢れる壮絶な逸話を残し、今では琉球歴史の中でも高い人気を誇る『謝名親方』を紹介しました♪
敢えて『今では人気が高い』と伝えたのには理由があって、かつてはこの謝名親方こと久米村出身の『鄭迵』、琉球が1609年に島津から信仰されるきっかけを作ってしまった逆賊的な人物という扱いを受けていたこともあったのです。
確かに謝名親方の頑固一徹なまでの外交姿勢が、島津の痺れを切らせ琉球侵攻という歴史的大事件を引き起こしたことは否めないでしょう。
しかし、仮にあの時に彼のようなこれほどまでの徹底した姿勢が無ければ、その後の琉球、そして今の沖縄県があったかどうかも分からないほどのターニングポイントを作ったということも事実ではないかと語られるようになってきたのです。
究極な言い方をすれば、もしかするとあの時に沖縄も薩摩藩に取り込まれ、そして現在も我々は鹿児島県民となっていたのかもしれないのです。
その事実を今一度しっかりと学び直して、琉球のために身を捧げ貫徹した謝名親方こと『鄭迵』のことを知ってもらえればと思います。
謝名親方は最終的に三司官という今でいう大臣クラスの地位にまで上り詰めるかなり優秀な人物、それまでは久米村の人間が三司官になることは出来ず、謝名親方が久米出身初の三司官となる。
それまでの慣行を崩してまで三司官に引き立てるほど琉球にとって重要な人材だったのだ。しかも身長も高く武道にも優れ怪力無双を誇ったと言われている。
謝名親方という名前は、彼が出世をしていく中で今の宜野湾市大謝名の総地頭に任命されたことに由来し、それ以来謝名親方と呼ばれるようになる。
謝名親方が活躍したのは、前回お伝えした『儀間真常』とおおよそ同時期。
日本では豊臣秀吉が天下人となり、朝鮮や明へも出兵を企てている頃。
そこで更なる財源や兵力の確保のため薩摩を通して琉球にも兵を出させろとか、兵を出さないならば途轍もない量の食料を納めさせろと言い出してきたのです。
琉球独自だけでも財源が乏しく食料不足もままならず民が飢えに苦しんでいる時代。
この様子に自分を奮い立たせ甘藷(イモ)の普及を成功させたのが、野國總管と儀間真常のタッグでした。
そして久米の血を引く鄭迵は、自分たちはあくまでも独立国家である、中国への従属は認めても日本へ従属した覚えはない!ましてこれだけ疲弊している国、国民から搾取しようとは何事だ!とその要望を突っぱね続けるわけなんです。
しかも、豊臣ジャパンが明や朝鮮への出兵を企んでいることを先回りで明へ報告し、日本の奇襲攻勢に対応できる体制を整えさせたのだ。もちろんこれは日本にとっては琉球の裏切り行為となるが、明や朝鮮にとっては、よくぞ伝えてくれた!とある意味では絶大な信頼を得たことにも繋がった。
謝名親方も若い頃には長期間中国へ留学をし、色々な最先端教育を学ばせてもらっている。さらに苦学を共にした学生仲間たちもいるわけで、その仲間たちの国々や自身のルーツである中国を侵略しようとしている日本軍に手を貸すなど、自らの性格からしてもとても許すことが出来なかったんだとも思われる。
その後秀吉の死により一旦はアジア出兵の熱も下がり、徳川家康によって少しは穏やかな時代へと移り変わっていくのだが、豊臣時代、徳川時代の中、特に将軍への信用を勝ち取ろうと威勢をきって従軍してきた島津家の財政は火の車。
そこで目を付けたのがこれまた琉球。琉球を支配下に置いて琉球独自の海外貿易などの利権を手に入れることで大きな利益を生み出すことができる。さらに新体制徳川幕府としても、豊臣ジャパンのような強権な姿勢でアジアを取り込むのではなく、穏便な形で外交を復活させるために琉球のポジションをうまく使いたかった。
そこの思惑が一致し、どうしても従属に従わない琉球・交渉担当謝名親方に対し徳川家康のGOサインの元、ついに島津氏は琉球侵攻へと乗り出すことになるわけなんです。此の期に及んでも謝名親方は明への助けを求める密書を送ろうとしたり、最後の最後まで抵抗します。
島津による琉球従属の理由には、実はもう一つ興味深い話もあって、島津の琉球侵攻以前にも鹿野藩(現鳥取県)により琉球が侵攻されかねない事件が起こっていた。その際に鹿野から琉球を救ったのは島津で、今の琉球があるのは島津のおかげであると。なので薩摩に従属せよという話もあったんだとか。
もしも鳥取に侵攻されていたらば、我々は鳥取人だったのかもしれないのよね!?
そして1609年、ついに島津軍は3000人もの兵を率いて琉球へ侵攻。奄美、徳之島、沖永良部などを制圧して琉球への上陸を試みる。
しかし謝名利山率いる琉球軍も奮闘し、現那覇港の三重グスク、屋良座森グスクを大きな鎖で繋ぎ船の侵入を食い止め島津軍に抵抗。
しかし陸上から攻め込んできた別隊に押し込まれ遂に陥落。。戦国時代の猛者軍団と言われる島津との力の格差は大きくあったことでしょうね。
首里への侵攻を防ぐために最後の砦となったのが太平橋と呼ばれる首里平良にある橋だとも言われている。
時の尚寧王は国民の身を案じ遂に降伏を決意、100名ほどの臣下たちと共に薩摩へと連行されてしまうわけなんですよね。
その中にはあの『儀間真常』もいて、『謝名親方』もいたわけなんです。
そして2年間という期間を薩摩で過ごし、江戸への将軍謁見にも訪れ、最終的には起請文という島津への忠誠を誓わせるあまりに理不尽な内容である誓約書にサインを強要され、ようやくにして琉球へと帰ってくることが出来たわけです。
しかし頑固一徹『謝名利山』は、ここでも自分の意思を絶対に曲げず、利山に全幅の信頼を寄せる尚寧王からどうにか署名をして一緒に琉球へ帰ってくれとお願いされるも受け入れず、誇りを持ち続け薩摩の地で斬首刑に処せられて最後を迎えることになったのです。
その誓約書の大きな内容の一つに奄美群島の割譲がありました。そう、ここにて初めて奄美群島が琉球から切り離されて薩摩の領有地となります。実際に琉球の一部だった島々が別の県となってしまったわけなんです。正確に言えば廃藩置県を境にということになるようだけど。
そしてもう一つ言えば、奄美群島も琉球王府軍によって制圧されてきたという歴史もあるのだけどね(^^;
そう、考えてみれば琉球も然りで薩摩の一部となっていた可能性は大いに大いにあったわけなんですね。
確かに謝名親方が島津からの度重なる強権強要に最後の最後まで抵抗し、それが引き金となって琉球侵攻に至ったのかもしれない。
しかし、彼のような堅物がおらず、島津の言いなりのままなんの抵抗も無く従属していたとしたら、それこそその後も琉球という国が存続していたのか、果たして今の沖縄という1つの独立した自治体を保ち続けられていたのか。
その文武両道に加え堅物の中の堅物である謝名利山は、自身の命と引き換えに琉球の抵抗意思、そして琉球という存在や誇りを歴史に残し世間に知らしめたかったのでないだろうか。
事実、その後は薩摩の従属とされながらもその島国のしたたかさで逆に色んなものを貪欲に吸収し、いわゆる琉球ルネッサンス期を迎えることになるのだ。
今の沖縄の独特な琉球文化はこの時期に生まれたものがほとんどだとも言われている。
そう考えると、一昔前までは悪者に仕立て上げられ邪悪の『邪』で『邪名利山』とも呼ばれていた彼だが、その誇りと琉球愛を今一度思い直せば、男の中の男であったのではないかと思えるわけだ。
恩納村には、彼の名を冠した某リゾートホテルもあるよね。
そういや以前そちらにお邪魔した時にもブログ書いてた(´∀`)
そして波上ビーチのすぐ隣の旭ヶ丘公園には、謝名利山の顕彰碑も建てられているので、ぜひ機会あれば手を合わせに訪れてみてほしい。
最後に一言だけ言わせて、
じゃーな!
ワワワワケンロー!!
E.KEMURA
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