Invisible RYUKYU 第128回目は『皆大好きサツマイモは、儀間芋、真常芋だったのかも!』

Wandering Okinawa!

ギンギマギンな儀間真常〜(´∀`) そいつが彼のやり方〜♪

どうも、通堂マサヒコ、トンドーです(´∀`)!

ワワワワケンロー!!

ということで!沖縄にはまた県独自の緊急事態宣言が発令されたこともあり、インビジブルでもいつものように『遊べる』『楽しめる』『訪れる』スポットというところではなく、家にいて学べるような偉人インビジブルにシフトしてお届けしています(´∀`)

以前には、『羽地朝秀』そして『蔡温』についてもお届けしたので、今回は同じく『琉球五偉人』に数えられる『儀間真常』についてお届けしました♪

ラジコはこちら!

儀間真常さんの功績もかなりスゴいんですよ〜!

まずは、現在『サツマイモ』という名で日本全国に知られているあの芋は、実は元々は『甘藷』という名で儀間真常が琉球全体に広め多くの人々を救い、そしてそれが薩摩に渡り薩摩でも重要な農作物として発達、『薩摩芋』となる。

それからその後に、後世『甘藷先生』とも呼ばれ崇められるようにまでになる『青木昆陽』によって江戸での普及にも成功し日本全体に広がり、その後の幾多もの飢饉から人々を救う救世主的な作物になっていくんですよね。

そう、実は儀間真常は、琉球のみならず日本全土の飢饉を救うほどの壮大なる偉業を行った人物でもあるわけなんです。

この儀間真常、実は士族の家系に生まれ大里の大城家の血を引く流れだそう。そう、ということはあの尚巴志とも血縁関係が、という関係性。

そんな士族の間柄に生まれた彼がなぜ、見過ごそうと思えば見過ごすこともできただろう庶民の苦しい生活のためを思い、甘藷を広めようと思ったのか。

ここに琉球偉人に共通する琉球愛、そして自分の中の正義があるんでしょうね。

自分が良ければそれでいい、自分たちの暮らし、士族の暮らしさえ良ければ、庶民の生活なんてどうでもいい。そこにしっかりと疑問を持ち、国としてしっかり成長していくには、豊かな生活をしていくには国民から豊かにしていかなければならないと。

小さな島国に毎年のように襲来する台風や干ばつによって、安定しない農作物の収穫量。それでも根こそぎ徴収されてしまい毎日を生きるのに必死な農民たち。

さらにその頃、日本では豊臣秀吉が天下を治め、朝鮮出兵などというかなり強硬な政治を行っている頃。琉球にも1万5千の兵を出させろだとか、でなければ莫大な食料を納めろとかという熾烈な選択肢を迫られていた狭間であったのだ。

ただでさえ困窮している国の財政、飢饉に襲われる国民、こういう時代背景が重なったということも大きいだろう。年貢を徴収する側の地頭職としての責任も感じていたんじゃないのかな。

そこで彼は、島国に適した農産物を探し求め日々勤勉に学び、色々な情報収集にも務める。

ここに一つの大きな『歴史が動いた!』的な奇跡の出会いが生まれる。

実は真常が地頭職として務める垣花儀間村、まさに今の那覇軍港あたりには、中国への進貢船に乗り込むための水夫たちが多く住んでいた。

そこで真常は、その水夫たちから、野國村(今の嘉手納町野国)の『野國總管』という進貢船の総括職に当たる人物が、中国から天候に左右されにくい甘藷という作物の苗を持ち帰ったという話を聞く。

野國總管という人物は結構未だ謎が多い人物で、野國も總管も彼の名前ではなく、あくまでも野國村出身の總管職に当たる人物ということくらいしか分かっていない。

しかし実在したことは確かで末裔の方々もおられる。

そして野國總管のお墓と、甘藷発祥の地という碑が米軍施設嘉手納マリーナの中に存在している。マリーナが開いている時には地元の人でも入ってみることができるよ。

さらに嘉手納道の駅には野國總管像も建ってるし、比謝川沿いには野國總管を祀る『野國總管宮』も存在している。特に嘉手納の方々にとっては誇り高き偉人中の偉人だよね。

と、話を戻して、

その甘藷とかいう何かしら特別な植物を中国から持ち帰ったという人物の存在を聞き、真常はすぐさま北谷間切の野國へ向かう。

そして野國總管と念願の対面を果たし、お互いの熱い燃えるような想いを話し合ったんだとか。

この頃野國總管はもう老人の域に達しており、その甘藷を普及させることによって琉球を救うという壮大な夢をまだ若かった真常に託したんだと。

真常は野國總管から習った栽培方法を元に試行錯誤しながらも甘藷の普及を成功させていく。自ら地方地方を回っては苗を分け与えて栽培方法を伝授、次第に琉球全土での甘藷の栽培が実を結び食料事情が大きく改善していくことになったのです。

後にこの技術が薩摩にも渡り、薩摩でも天候に左右されにくい重要農作物として藩を押しての栽培普及に繋がっていくことになる。

すると今度は江戸幕府でもその噂を聞きつけることとなり、青木昆陽を擁して薩摩の芋が関東の地での栽培にも成功するわけだ。ここに『サツマイモ』が定着する。

もしかしたら全国に轟く『真常芋』とか『儀間芋』とか『ギンギマ芋』!?だったかもしれんよね。

そしてその後には、日本本土を揺るがすような幾多もの大飢饉をも乗り越えられる救世主となっていくのである。

これだけでも大いに偉大な功績と讃えられるべきことだけども、真常の功績はこれに留まりません。

1609年、遂に琉球は薩摩によって侵略され時の尚寧王は薩摩へと連行、その際に真常もお供として薩摩へ随行しているんです。

そしてここに琉球人の血、琉球人のしたたかさあり!なわけね。

薩摩滞在中に様々なことを学び、経験し、それが後の琉球の発展にも大きく大きく繋がっていくんです。 正に転んでもただでは起きんてやつだよね。

その際たるものが、薩摩から『木綿の種』を持ち帰って琉球でも木綿の栽培を行い、木綿織り技術を広め、木綿産業を琉球に定着させたことなんですね。

ここから今尚重要な琉球伝統工芸として受け継がれている『琉球絣』が発達していったと言われている。

さらに真常は、中国から砂糖の製法を学び、絞り機を使って砂糖を煮詰め黒砂糖を作る技術も各地に広める。それがその後琉球の貴重な生産品として重宝されることになり、今に続く沖縄のサトウキビ産業の基盤となるきっかけでもあったのだ。

さらには以前に『松山公園』の回でもお伝えしたが、あのエイサーの起源となる『念仏踊り』を磐城の国から持ち込み、沖縄の浄土宗普及に大きく貢献した『袋中上人』の愛弟子として師事し、人々に極楽往生の道を説いて回ったとも言われている。

そんな大偉業の数々をこなし、沖縄産業のパイオニアと慕われる儀間真常のお墓は、現在は首里崎山町の崎山公園の近くにある。

元は垣花にあったらしいけども、軍港として摂取されているので現在の崎山に移されているという。

前山公園からの眺め

機会あれば一度訪れて、感謝の意を込め手を合わせてみてはいかがでしょうか。

放送後の一枚はコンドーです!を意識したんだけど、モニター越しに全然伝わんねー。。

ワワワワケンロー!!


The following two tabs change content below.
E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
タイトルとURLをコピーしました