ハッピーバースデー梅雨〜(´∀`) ハッピーバースデー梅雨〜(´∀`)
それはまさに!梅雨が生まれた日〜♪
ワワワケンロー!
と変わり変わらずくだらないオープニングでスタートしましたが!
今週のインビジブルは〜!先週の琉球革命戦士『羽地朝秀』の意思を引き継ぎ、その後の琉球第二黄金期、琉球ルネッサンスと言われる時代をものすごいリーダーシップで引っ張っていく人物、それこそが琉球最大の政治家と言われる『蔡温』をインドアインビジブルとして紹介してみました♪
蔡温、その少し変わった名前からもなんとなく分かるかと思うけど、彼は『久米三十六世』の末裔で、中国から琉球に渡ってきた渡来人の子孫なわけなんです。
しかも、父親である『蔡鐸(さいたく)』は久米村の最高職である総理唐栄司であり、『歴代宝案』や『中山世譜』の編纂に携わった久米村きっての実力者であった。
蔡温はそんな家系に生まれるも、幼少期は勉強嫌いで10代そこそこまで字も書けないほどのリキランヌーだったと言われている。
ある15夜の月見会で、自分よりも格下の士族の子に字を書けないこと、学問の知識が無いことをバカにされ、悔しくて悔しくて泣き晴らしそこから一念発起!以来勉強の虫になったという。
その後の活躍はすでに素晴らしく、25歳で久米村の子供達に学問を教える先生になり、27歳では通訳として福建省へ渡り、自身の学びも大いに深めることとなる。そこで出会ったとある名も名乗らぬ隠者からの教えが、その後の蔡温を決定づけることになったんだとか。
『いわゆる学問とは知識があること、学があることではない。学んだことを如何に民のために、世のために実践し平和な暮らしを与えることができるかである』と。
この言葉に感銘した蔡温は、その後の自分の人生を琉球のために捧げようと決意したのではないかと。
ここにあの『羽地朝秀』の生き方と通づるものがあるのを感じますよね♪
そしてその優秀さが評判を呼び、なんと29歳にしてその当時の王様『尚益王』の息子にして王子であった『尚敬』の言わば家庭教師として宮中内に呼ばれることになる。
ほどなくして尚益王が没し、わずか14歳という若さで尚敬王が国王に即位すると、その若き国王を全般的にお世話する『国師』というポジションに任命される。
尚敬王も蔡温に全幅の信頼を寄せており、あらゆることにおいて蔡温に意見を求めるようになっていたと。さらに後には尚敬王の王女が蔡温の息子へ嫁ぐという婚姻関係をも結び、蔡温は王府から首里に屋敷を授かったりもしている。
なんか、尚泰久王と金丸、そして尚質王と羽地朝秀の間柄にも似た感じを受けるよね。
そしてあまりにこうなってくると、側から見ればそれは、蔡温贔屓な国王、そして割と強権的に政治を動かす蔡温、という風にもみられてしまい、同じ役人同士の中でも派閥が出来たり面白く思わない人間が出てくるのは予想できるよね。実際に後々に、その後の琉球を大きく変えてしまいかねない造反組も現れる。
それは少し置いておいて、蔡温は実際に羽地朝秀の路線を引き継いでの、国の建て直し、民衆の生活向上を掲げ、琉球の発展のために数多くの偉業を行なっている。
例えば木造の造船や建築が盛んになっていっている時代なので、ヤンバルでは次々に木々を切り倒し山は荒廃状態寸前だった。蔡温は深刻な材木不足に陥る危機を感じ、山林資源の確保のために植林や管理法を徹底させ、その後の安定供給を測りゆくゆくは林業が盛んにもなっていった。
その名残として、辺戸には蔡温松並木公園があったり、今帰仁には松の並木道、羽地にも蔡温松という地元の人に親しまれている松が存在している。
それから、先週も話をした羽地朝秀の羽地間切では、琉球きっての米の産地にも関わらず大雨による羽地大川の氾濫被害が後を絶たなかった。そこで尚敬王は、治水学にも長けていた蔡温に河川改修を命じ、蔡温は中国で学んできた風水を基礎に堤防の構築や水の流れをうまく利用し、たった3ヶ月間で10万人の人手を用いて改修を完成させた。
その改修を記念して、現在ではレプリカではあるけども改決羽地川碑記という石碑が川上の集落の中の小高い丘に建っている。
さらに偉業は、農林水産省のページでも紹介されているほどで、いかに沖縄の発展に貢献した改修だったかと言える。
さらには、今のウチナーンチュの特性に繋がる面白い偉業があって、蔡温は民衆に対して農業生産を高めるたに『農務帳』という農業の手引書を与え、意識の底上げも図っていくわけ。
そんな中でもやはり、集落の中には家庭内の事情や作地事情でうまく作業が出来なかったり、うまく収穫まで果たせなかったりする農家も出てくるわけだ。
そこで蔡温は、村人同士で協力し合いながらも連帯責任を伴わせ、年貢の滞納だったり不正が起きないよう共同作業組合を作らせる。それを『ユヒ組』と言った。
この『ユヒ』はまさに『結ぶ』という字の『結(ユヒ)』で、『ユヒ組』は家族単位で結ばれて協力するという意味なんだとか。
その『ユヒ』が回る、『ユヒ回る』、から、沖縄の県民性を表す『ユイマール』に変化していったんだと言われているんだよね。
助け合いという意味合いは変わってないんですね〜。
他にも一般民衆にも基本的な生活知識や学問や道義を平等に学ばせようと、『御教条』という今で言う教科書的な書を発行。その後の民衆の知識の底上げに相当役立ったと思われる。
清国との外交交渉でも手腕を発揮し、評価事件というそれまでに無い大危機も乗り切った。
そんな革新的なリーダーシップ極まりない蔡温、となると、古い体制の方が何かと都合のいい旧士族や役人たちの中には、彼の改革路線を面白く思わない人間も出てくるのが世の常だし、蔡温としても自分の究極な信念にそぐわない人間が邪魔になってもくるだろう。
以前にも伝えたけども、そんなゴリゴリな蔡温率いる革新派首里王府に敵対し、大胆にも名護に都を移し、名護の西海岸から羽地内海まで川を削って運河を通し、巨大な海上交通都市を整備しようと企む士族連中が出てくる。
そこで、蔡温は自身の風水の知識をふんだんに取り入れて、
琉球の神こそが首里を王都と位置付けた。琉球の島は国頭、中頭、島尻三つの府で一つの龍の生命体である。それを分断するとは何事だ!許さん!と、名護の入り口に大きな石碑を建ててそこにちゅーじゅく書き下ろした。
それが現在の名護のひんぷんガジュマルの下に鎮座している『三府龍脈碑』。レプリカだけども。
その石碑が名護の入り口にあって『ひんぷん』のようにも見えるから『ひんぷんしー』と呼ばれ、その『ひんぷんしー』の側にあるからあの巨大ガジュマルは『ひんぷんガジュマル』と呼ばれている。
と言うように、これまた偉大な業績の数々を残し琉球第二黄金期を支えた蔡温。
あまりにその偉業と存在感が大きいために、蔡温亡き後も王府には三司官が四人いると言わしめたほど。
しっかりその偉業に感謝して、今後の世代にも生き様含めて語り継いでいきたいですね〜!
放送後の一枚は、ユイユイユイのユイマール〜をイメージしたつもりなんだけど(^^;
ワワワケンロー!!
E.KEMURA
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