Invisible RYUKYU 第166回目は『国際通りの裏通り、じゃなく裏話がでーじロック!』

Wandering Okinawa!

マキシーで手を挙げて〜( ´ー`)丿

久茂地の店までと〜( ´ー`)

どうも那覇のソウルねーちゃん鈴木ボス美です!

ワケンロー!

ほんとはマキシーのあの微妙な階段をネタにしたかったんだけどや(´∀`)

というわけで、今夜も那覇市制100周年記念日を間近に控えた那覇市から、みんな大好き国際通りインビジブルをお届けしました〜!

近年ではあまりに観光地化してしまって、地元ウチナーンチュはなかなか訪れなくなっている感もある国際通りですが、やはり沖縄を代表する観光スポットだし、沖縄に来たら通らないことは無いであろうメインストリートだよね。

であれば、迎える側の我々もしっかりと沖縄の戦後復興シンボル『奇跡の1マイル』とも称される国際通りの歴史も学んで、伝えていくことができれば、沖縄の理解度がさらに深まっていくんじゃないかなと思うわけです。

とにかく面白いので、ぜひ参考にしてもらってこれから国際通りウンチクを伝え回ってもらえればと思います。

国際通りはかつて盗賊の出るエリアだった

琉球王朝時代は、首里が行政の街で那覇が商業の街であった。那覇といってもその頃は旧那覇エリアなんで、前回お伝えした東町〜西町、若狭町、泉崎あたりね。

西町の薩摩藩在番奉行所跡が沖縄県庁となる

で、廃藩置県後沖縄県となり、まもなくして県庁が西村から現在の泉崎に移動する。

となると首里から泉崎までは、一旦泊高橋まで行くか崇元寺前の安里橋を渡っていくしか道がなく、これはだいぶ遠回りだったんだよね。

そこで昭和7年、双方を結ぶ直線道路、いわゆるショートカットとして『新県道』またの名を『牧志街道』という道路が、安里からまだ原野だった牧志を突っ切って泉崎まで通された。これが後の国際通りになる。

王朝時代このあたりにはほとんど人も住んでいなく、盗賊も出るような原野だったので、王府命令で小禄から敢えて集団で家族が移住させられたりもした場所だった。

さらにはひどい湿地帯で、ひとたび大雨が降るとガーブ川が溢れて、すぐにジャカジャカになるような土地だったと。それで住む場所は少なく一面農地が広がりお墓も多いエリアであった。今も一本裏道入ると結構お墓残ってたりするよね。

牧志の丘 沖縄県公文書館所蔵

そんな新道路完成後、沖縄は第二次世界大戦に巻き込まれることになる。

那覇や首里は焼け野原、住民たちも街を追われた。旧那覇はもちろん、ほぼ那覇エリア全体がアメリカ軍の管轄下に置かれ、人々が立ち入ることができないエリアとなった。

その後少しづつ復興が始まり、まずは物を食べるための器が必要だと壺屋に陶工職人が集められ、壺屋から市場が形成されていく。

そんな中ある一人の男が立ち上がった。

高良一

戦前までは本部で様々な事業を行う実業家、戦後はうるま新報の創刊に携わり、議員を経て那覇に移住。首里の高台から変わり果てた那覇を眺めては、これからの沖縄のことを考える日々が続いたという。

当時はまだ那覇市、首里市、小禄村、真和志村が別々の自治体。そのちょうど真ん中あたりに存在する牧志に着目した。

ここを新しい中心として、未来ある沖縄を創っていけないか!

と思うが早いか、自ら牧志の軍施設を訪れ直談判をする。戦後疲弊し切った沖縄の住民たちのため娯楽施設が必要だ、劇場をここに作りたい!と。するとその熱意に押されたのか、エリア責任者は、まさかの快諾をし、土地の提供、建築資材の提供までしてくれたという。

しかしここからが厄介であった。軍の承諾は得たものの、もちろん県の許可も受けなければならない。しかし県としては当時、戦後間もなく住民の生活もままならない状況で娯楽施設はいただけないと。

話は進まず平行線、しかしここで高良の熱意をサポートし大活躍する一人の県職員が現れる。

それが川平朝申だ。

なんか聞き覚えない?

そう!ジョン・カビラ、川平慈英兄弟のあの川平ファミリーなんです!

こちらの川平朝申さんは、ジョン・カビラと川平慈英さんのお父さんの兄貴。伯父さんに当たる人物なんです。実は川平家は、王朝時代から芸能に関する職に就く士族の末裔なんです。

お父さんの方も沖縄でラジオ放送を立ち上げた第一人者『川平朝清』さんで、まさに現代でも芸能で活躍してるファミリーってんだからスゴイよね!

この朝申さん、高良さんの熱意に大いに共感し、県民に今必要なのは娯楽であり生きる希望を与えるべきだと。

あの手この手でアメリカ軍との駆け引きなども行い巧みに交渉し、遂に牧志の地に劇場を建てることが許されたのだ!

アーニー・パイル國際劇場

アーニー・パイルというのは、アメリカ軍の従軍記者。第二次大戦当時、彼の書く戦況ニュースが物凄い人気を呼び、一大センセーショナルを巻き起こしていたという。

そのアーニー・パイルは沖縄戦にも従軍するのだが伊江島の地で日本軍の弾丸に倒れ、そのニュースはアメリカ中を駆け巡った。それほど人気の高い記者であった。

現在、伊江島にアーニー・パイルの碑が建ってますよね。

在沖米軍の間でも絶大な人気を誇っていたアーニー・パイルの名を冠することで、アメリカ軍からの支持も得ようということだったのか、高良はその劇場を『アーニー・パイル國際劇場』と名付ける。

沖縄県公文書館所蔵

すると高良の読みは大的中!連日超満員の大盛況を収め、人々も活気付き、次第に牧志エリアおよび通り沿いに人が集まり出し新しい那覇の中心地となっていく。

この國際劇場の存在にちなんで、牧志街道が後に『国際通り』と呼ばれるようになるのだ。

ちなみに、『〜にちなんで名付けられる』というのを英語で伝えると

“named after ~” となり

『国際通りが国際劇場にちなんで名付けられた』と伝えるには

“The Koksusai Street is named after the Kokusai Theater”

と伝えるといいでしょう。

國際劇場はその後国際琉映館となり、復帰を経て我々も知っている国際ショッピングセンターへと建て替えられる。

高校時代、一階のエンダーにはよく通ったな〜(´ー`) いつもオールディーズが流れてて、サイコーな空間だった♪

現在は皆さんご存知『てんぶす館』となっている。

と、さらに高良の事業センスは止まらない!

国際劇場に隣接する形で平和館という映画館もオープン!

これが平和通りの由来となる。

そして劇場経営で大成功を収めた高良は、その資金で金融業にも参入。現在国際通りにある沖縄海邦銀行松尾支店の地に、第一相互銀行を設立。

そこから久茂地に抜けていく通りをなんて言いますか?

そう、一銀通り!第一相互銀行からの一銀通り!ここにも高良の事業が絡んでいた!

ちなみに沖映通りも、高良の事業ではないものの当時その通りに建っていた沖映本館が由来である。

実はまだまだある!

かつて天久にあった東急ホテルは、もともと高良が仕掛けたアメリカ軍人向けのホテル琉球が前身。

さらに中城城跡に隣接していた、廃墟ホテルとして認知度が広がってしまったあの中城高原ホテルも高良の手がけた事業なのだ!

もう一つ言うと、その当時から沖縄の車社会を懸念してモノレール構想もすでに提唱していたという。

この人の存在なくして今の国際通り、そして那覇の、それこそ奇跡的な復活は無かったのかもしれない。

で、、実はそのお孫さんとは面識あって、以前何度かお会いさせてもらっている(´∀`)

今でも気を付けながら国際通りを歩いてみると、当時から残っている建物を割と発見することもできる。

そういう歴史も知った上で、今一度国際通りを眺めて見てほしいなと思うわけです。

ワワワワワケンロー!!

放送後の1枚は、那覇市制100周年記念缶のオリオンのナハビーーーーールとロック!!


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E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
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