2週間ぶりのご無沙汰でございました!
先週はプロ野球キャンプレポートのため、インビジボーはお休みとなっておりましたが、本日元気に復活ですよ〜!
早速、ブログの方でも追っかけ紹介していきたいと思います♪
いきなりですが、
おじゃなー!メーンフィース!シカゴー!はるかボスアンジェルスまでー♪
ということで、まさかの永ちゃんの歌詞でも歌われている我らが『大謝名』!
いや、ほんとはルイジアナー!ですけどね。
と、宜野湾市大謝名、実はオキナワンダラーの事務所も大謝名にあるのと。
なんと私ボスのですね、祖父母が大謝名で、もう昔っから大謝名には親しみもあればしょっちゅう訪れてきた場所なので、どっちかといえばもう地元的な意識というか、第三者的な感覚がなくって。
世間からはどのような感覚で捉えられている場所なのか、よく分かりかねる部分もあるんだけど。
このあたりで、大謝名に恩返しをする意味も込めて、大謝名のハンパないロックンロールインビジブルをお届けしましょうね♪
おじゃなー!
大謝名出身の大偉人
まず、大謝名出身のものすごい偉人をご存知ですか?
琉球王朝尚家が始まる以前の、琉球三大王統の一つ、
察度王統の創始者、察度は実は大謝名出身なんです!
彼は奥間大親という父親と天女との子であるという伝説があって、森川公園の森の川はその伝説の舞台、天女が水浴びをしていたと言われる泉なんですね。
で、奥間大親が天女が水浴びをしている隙に羽衣を隠してしまい、困った天女に、一緒に探してあげるから見つかるまで家に来なさいと連れて帰ると。
そこから二人は夫婦の仲になり、娘と息子の二人の子供を授かる。
ある日子供が遊びながら羽衣のありかをほのめかす歌を歌っていたところ、それに気づき、羽衣を探し出した天女は涙ながらに子供たちを置いて天に帰っていくという話。
宜野湾のはごろも祭りは、この羽衣伝説が由来となっているんですね。
その天女の息子こそが『謝名ムイ』こと『察度』で、彼は貧しい生活をしながらも、どこか不思議な魅力を持つ青年だったと。
そしてある日、勝連按司の娘が婿探しをしている話を聞きつけ、周りに止めておけと言われながらも勝連に向かい、当然のごとく門前払いを受けるも、粘りに粘っていたところ姫の目に止まり、この人こそ婿になる人だ!と選ばれたのだった。
その後、大謝名の高台の自分の家に連れて帰り、相変わらず貧しい生活を送るのだが、姫が突然家の前の畑に埋まっている何かしら光るものを発見する。
それが金塊だったと。
その価値を分からない察度は、こんなものいくらでもあると、掘れば掘るだけ金塊が出てきた。
それらを姫の助言を得て、大和から貿易にやってきた商人たちの鉄と交換して、鉄で農具を大量に作って皆に分け与えたところ豊作が続き、人望を高め遂には王様になるという話。
ちょいちょい眉唾的な部分はあるものの、もしかするとその天女が異国の人間ではなかったのか、故に異彩を放てたのではないかとか。金塊と言われているのはもしかすると螺鈿細工の材料となる夜光貝であったかもしれないとか、その近辺からは砂金が取れたようだとか。
妙に納得のいきそうな説も色々あるのだ。
何より、大謝名の高台には『黄金宮』と書いて『くがになー』という史跡があり、まさにそここそが当時察度の住んでた住居があり、目の前の畑から出てきた金塊を元に、富を蓄えることができたことに感謝して建てた楼閣の跡だと言われている。
ここまでは一般的によく知られている話なのだけど、
ここまではそこそこ知られている話なのだけど、今回はこちら!
黄金宮の不思議
実際にその黄金宮を訪れてみると、え?これが?というちょっと拍子抜けなのと、それよりもこんな高台のこんなひっそりとした場所で、どうやって貿易なんかしてたんだろうと。
牧港まで下りていくには結構な時間かかるし、何より目の前は断崖絶壁の比屋良川が流れている。別名宇地泊川とも呼ばれる浦添と宜野湾の間を流れる川ね。
人々はその川を渡るためにも黄金宮の前を通る必要があり、察度はそこでも色々な情報収拾をしたり、物々交換をしていたりしたとも言われている。
ん〜、、ここを渡って?? というのが疑問だったわけ。
その謎がようやく解けた!
なんと実は、はるか昔の察度時代のころ、もう700年以上も前の話。
その当時は、まさかまさかのその黄金宮手前まで海だったと!
さらに現在の牧港、牧港のA&Wとかマチナトボールとか牧港団地とか、大謝名小学校までも昔は海というか入江だったということが分かっているんだと!
そしてその名残が今でも見て取れる場所がいくつかあるんです。
海であった名残の数々
まず、大謝名小の立地ってすごい窪んだ土地に建てられているんですね。道路上から見下ろす感じな造り。そう、この高低差こそ、昔はその下が海だったという名残。
さらに、大謝名といえば『メーヌカー』という湧き水が有名だけど、その近くにそれとはまた別の『ヤマトガー』という、日本の船たちが船を横付けして水を補給していたと言われるカーの跡もある。
それから比屋良川の川沿いの道を、上流に向けてある程度のところまでは歩いていけるんだけど、急に目の前に高い崖が現れる。これらの形状も、そこまでが昔は海であったという名残。
さらに皆さん納得してもらえると思うんだけど、パイプライン通りって通称ジェットコースターなんて言われるほど高低差がすごい道路だよね。
今でこそ嘉数へ上がっていく部分は丘が切り崩されて平坦な道路になっているけど、今でもまさにジェットコースターかと思うほどで、当時ミッション車ではエンスト続出な坂道だった。
実はこの高低差こそが、そこが昔海であったという一番分かりやすいポイントなんです。
パイプラインを牧港方面から大謝名に向かってグンと下りてきて、
一旦嘉数に差し掛かるあたりでグンと上って、
そしてまた大謝名小学校に向けてグンと下がって緩やかに上る。
このグンと下がった低い両部分が実は比屋良川と牧港川の流れ込む河口エリアで、昔は大きな入江であったのだ。
なので、当時の宇地泊は『内』に『湊』と書いて『内湊』、大きな外海と内海の入江に挟まれた場所であったのだ。
その後長い年月を経て、入江にはだんだんと土砂が積もり、現在のA&Wがある牧港4丁目、大謝名小のある大謝名5丁目のあのエリアが誕生したわけなんです。戦前まではほぼ田んぼ畑ですけどね。
で、実はこのエリアにもまた別の面白いインビジボーが隠れているんですが、今日は時間が無いのでまた来週お届けしたいと思います♪
ということで、実は黄金宮のすぐそこまでが海だったということが分かれば、むしろそここそが海に一番近い場所で、商船たちとのやりとりもすぐ近くで出来ていたということに繋がりますね。
畑の金塊が螺鈿細工の夜光貝だったかも知れないという説にもリアリティが生まれる。
その後力を付けた察度は、王となって明に朝貢、冊封関係を結び、その後も様々な諸外国と交易を深めて、まさにその後の大交易大国琉球となる礎を作った人物なのです!
ここまで知れば、大謝名の誇り!宜野湾の誇り!として自慢できるでしょ♪
琉球人よりも琉球人であったと言われる、ラストサムライのような生き様を果たした『謝名親方』こと『謝名利山:鄭迵』も謝名村の地頭であったわけで、そのパワーさえも頂いている気もする♪
ということで、大謝名の皆さん!誇りを持って地元愛を高めましょう!
そして、大謝名&宜野湾の行政の方〜!
宜野湾インビジブルのご依頼、お待ちしておりまーす!
放送後の一枚は、久々のワケンロー三人衆!
ワワワワケンロー!!
E.KEMURA
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