今週のインビジブルは、これまで数週間に渡ってお送りしてきた『首里と川』の総仕上げ!
ということで、ボス・アカペラ替え歌も~♪
秘密は~リバーサイド~♪川沿いリバーサイド~♪首里城リバーサイド~♪と、井上風水の歌、あらん井上陽水のリバーサイドホテルで攻めてみたわけなんです♪
そう、首里城のロケーションは風水的な面で見てみると、これでもか!というくらい最高な立地条件に位置しているわけなんですね~♪
その辺を今日は、ロックンロールの日の6月9日ということもあって!たっぷりとお届けしました~!
以前にも一度、首里城風水について大まかには伝えたと思うんだけど、より突き詰めれば突き詰めるほど奥が深い♪
さらに調べている中で自分が独断的に思うところ、多少バカげたと思える憶測も、敢えて書き残していこうと思っているところです。ラジオでは話せなかった部分も結構あるので、ぜひ興味のある方は読んでみてください♪
琉球と風水
まず、ある程度知られたことではあるんだけども、首里城の築城には『風水』が大きく絡んでいることはほぼ間違いないわけです。
誰が築城したか、ということは未だ判明していないのだけれども。
少なくとも、尚巴志が1429年に三山統一を果たし、琉球という1王国を創り上げた時には首里城は既に首里のあの位置に存在していたと言われている。
尚巴志が地元の佐敷から徐々に勢力を拡大し、まずの中山を破った後に中山王の居城であった浦添から王都を首里に移し、そこから首里は約450年もの間琉球の王都であり続けるわけなんですね。( 察度時代に察度がすでに首里に遷都したという説もある)
誰が築城したのかという疑問はこれからもまだ未知のままなのかもしれないけれど、なぜその場所に築城したのか、という理由はこの風水によるところが大きいと言えるのかもしれない。
まず、尚巴志の三山統一から遡ること50年ほど前、中山には察度王が君臨し、大国である明との冊封関係も築き、東南アジアとの外交貿易も行うなど、国内外においてその地位を確かなものに築き上げていた。
この時期には既に明からの渡来人も多く入ってきており、中国的な文化や思想、そして風水も実用化されていたと考えていいはず。 察度の弟と言われる泰期も明へ幾度となく進貢していると記録されているし、いろんな文明が流入してきていたのも間違いないはず。
そう、となるとこの頃に既に首里城は、中国の風水師の指導によって築城されていたと考えても良さそうだ。
そして察度から武寧に代替わりし、その時代に尚巴志によって武寧および中山は滅ぼされることとなる。その後尚巴志は中山の居城であった浦添城から首里へ中山の王都を移し、まずは父親である尚思紹を中山王に立てる。
そこから北山、南山を滅ぼし、遂に三山統一を果たすのだが、この頃には既に尚巴志は首里城の拡張整備などを行っており、本格的に首里が琉球の中心地へと移り変わっていっている。
龍潭もこの頃に、それこそ中国人であり王府政治最高顧問であった『懐機』によって造られており、後に伝えるけどもそこにも風水がしっかりと組み込まれている。
そんな折、尚巴志が最後の難関南山を落とす際に、時の南山王であった『他魯毎』が尚巴志の持っている金の屏風をどうにか手に入れたいらしいという話を聞く。そこで尚巴志は南山の主水源であるカデシガー(泉)と交換するなら譲ってもいいと伝え、その話に乗った他魯毎のおかげで南山の民は水に困り果て、彼らが尚巴志に寝返って滅ぼされたという逸話がある。
これらの話からも紐解けるように、実は既に尚巴志は『水』というものがどれほどまでに重要か、そして水、風水に関わる『土地』、『立地』の重要性を大いに理解していたのではないか。とも考えられる。
ここで言う『風水』と言うのは、『蔵風得水』と書くことの『風水』であり、一般的に知られているような部屋のどこに何色の何を飾りなさいとか、どこの方角に何を置きなさいとかいう簡易的なものではない。
読んで字の如く『風を蓄え水を得る』ことの『風水』である。
自然界の中で絶えず流動している『風』と『水』、その双方の流れから自然の『氣』を得て生活の『良い』エネルギーに変えていこうという考えだ。
そもそも人々が自然の富に恵まれて、豊かに生活できる立地条件というのは遥か昔から変わらない。
周りを山々に囲まれて風を凌ぎ、その山から原野に水が絶えず流れ込んでいるような土地。いわゆる『山河襟帯』と呼ばれる『山と川』によって着物の襟と帯かの如く周りを包んでもらっているかのような土地、そうなると土壌も豊かだし天災も少なく、生活に潤いが出る。外敵からも守ってくれる。
これは確かに納得だよね。その考えを先人たちは既に太古の昔から知っていたことになる。まぁ、何百年、何千年という時代を経て、どういった村々が常々繁栄してきたのかを見定めれば分かってくるというのも理解できる。
で実は、このような条件だけでなく、さらなる中国的風水思想さえもピッタリもピッタリ当てはまる場所があの!『首里城』の位置、そして『首里』なわけなんだよね。
じゃー、中国的風水思想な好立地とはなんぞや?
という話なんだけど、方角の神様『四獣』という4つの獣神を聞いたことはあるかな?
北の玄武、西の白虎、東の青龍、南の朱雀
これらの獣神に囲まれた立地は風水的に最適な立地とされる。
まずあるポイントを中心とした時(自分自身をポイントとして考えてみよう)、ポイントの(自分の)背後を北とし、そこに『宗山』と言われる高い山『玄武』が聳えること。そこからは良い『氣』が麓に向かって流れ、さらにその麓には『穴』と呼ばれる『氣』が湧き出してくるスポットがある。
ポイントの西と東には『白虎』、『青龍』という高い山が両サイドからそのポイントを囲うように覆ってくれている。その両サイドの山の麓には川が流れ、宗山や穴からの『氣』を囲い川の外側に漏らさないよう堰き止めてくれる。そして双方の川が流れ着く場所で二本は合流し一本となって流れていく。
その川の合流ポイント付近ではさらに『氣』をその場に堰き止めるため、言わば宗山からの直線的な延長線状の場所に『朱雀』とされるご神体に見立てられる形状があれば、風水的には神がかっている場所となるわけなんです。
で、驚くことに!まさにそのピッタリカンカンな立地が『首里城』なんです!
ほんとびっくりするよ!600~700年前にはもう、この立地性を見抜いてそこに城を築城し、その風水の見立て通りにその後何百年も1つの王国の王都として栄え存続していくことになるんだから。
じゃー確認!
検証:首里城と四獣神
まず首里城正殿を正面として見た時、首里城の背後には宗山である『玄武:弁ヶ岳』が聳え、
その麓に当たる場所として『穴:首里城、龍潭池』がある。
西側にはそれこそ虎と名が付く『虎瀬山〜末吉(西森)』があり、
東には『繁多川〜識名』の山々がある。
この左右の二つの丘陵下にはしっかり『真嘉比川』と『安里川』が流れ、松川で交わり一本の川となっている。
さらに驚くのは、玄武である弁ヶ岳と首里城を結び、さらに弁ヶ岳から流れる二本の川が一本に合流したポイントとを直線で結ぶと、玉御殿もその一直線上に重なり、さらにその先の南の『朱雀』となり得るのは何なのかというと。
なんと!それは『久米』!
久米といえば久米村があり、久米三十六性という中国系の渡来人が一つの街を形成していた場所。そこには今でも久米大道(泉崎)に隠れたドラゴンがいるし、
その近くには仲島の大石というドラゴンボールもある。
さらにさらに!実は久米村があるあの一帯がまだ浮島という離れ島だったころ、その島には松尾山という山があった。そう、朱雀とみなされていたのはおそらくこの松尾山で、その麓に位置していたのが久米村だったというわけ。松尾山は現代の繁華街『松山』の語源でしょう。
今は松山公園という繁華街の中で異様な緑の空間になってるよね。
もしもクニンダの人たちが、その当時からこの首里城に関わる風水の一連の『氣』の行き着く最終の場所を理解していて、そこにこそ『久米村』を作っていたのだとしたら!?なんとも緻密な街づくりだったのだろうか!?
そしてさらにはこの直線、少し角度を広げると『波上宮』や『ミーグスク』にも当たるんです!
朱雀の朱は朱色のアカですよね。波上宮のあの赤色、そして波上橋の欄干は波上宮からニライカナイへの妨げにならないようにと赤く塗られていますよね?
この赤、赤、赤、というのも何かしらの意味有り気を感じてしまう。
さらに久米村からその線を海を越えてもっと先まで伸ばすと、その先には慶良間諸島がしっかりと壁の如く立ちはだかっている!まさに風水の四獣神+川の流れがピタッとはまっているんです!
ただ一つ、上の説明を読みながら写真を見て、あれ?と思う人もいるかと思う。
その疑問に辿り着けばなかなかですよ(´∀`)
そう、四獣神の定義では『北』が『玄武』であり、『南』に『朱雀』、そして『西』に『白狐』で『東』に『青龍』。
でも実際に首里城に当てはめると、『北:玄武』であるはずの『弁ヶ岳』が地図上の方角的に見れば『東』じゃないか!?
しかも一般的には『南』を向くはずのお城の正面が『西』を向いてるじゃないか!?
この部分は諸説あって、まだ何が正解かは定まっていないけども。いずれの説にしても興味深い。
首里城はなぜ西を向く
例えば、琉球は太古の昔から太陽神信仰であり、ティーダ(太陽)を崇める信仰がある。
故に東から昇ってくる太陽は神の化身であり、神が正殿の上に現れパワーを振りまいてくれるという造りであると。そして西の海へと落ちていく。
さらには、やはり琉球から見て西の果てにある『中国』への表敬として、正殿を西向きにしたという説。
もしかするとここにも、琉球では『西』を『イリ』、東を『アガリ』といい、北のことを『ニシ』と呼ぶ由来が関係してるのかもしれないね。
本来の『北』が、首里城を基点とした時には『西(ニシ)』になる。更に本来の『東』は太陽が上がる『アガリ』、太陽が沈む西が『イリ』。
この説でいくと本来の南は琉球的に東となるのだが、それがウチナーぐちの『フェー』と何かしら関連付くのかは今後調べていきたい。そもそも南風で『はえ』は本土でも使われている。
そして首里城正面が西を向くが故に、全ての獣神の方角も90度時計回りに回って、玄武である北は正殿の背後、西が正殿左側の虎瀬山〜末吉、東が繁多川〜識名、南が久米〜慶良間となっているのだろうと。
この形状も頭に入れながら、川沿いを歩き、街並みを眺め、何百年も溢れ続けている『氣』を感じながら首里散策をしてみると、より一層深い首里を感じることができますよ♪
さらにここからは、少しぶっ飛んだ憶測になりますが、グーグルマップが3D対応になったことで見えてきたことが一つあるんです。
琉球は龍級なのか!?
首里 x 風水をもう一つ大きなサイズで見てみると、なんと!首里全体が龍の顔にも見えてきます。
そして、西原、中城、北中城あたりまでが長い胴体にも見え、丘陵斜面は見事な鱗にすら見えます!
そう、もしかするとこの龍の一体になぞらえられている場所場所というのは、その後、後世でも乱開発されないように神聖な場所として位置付け、今でも御嶽や緑が宿っているのかもしれないと。
龍の鼻の穴(まさに穴!)が首里城と、二つの川が交わるポイント付近になっているのも単なる偶然なのか!?
そんな勝手な憶測の中でさらにもう一つ気になったのが、龍の目。
片方の目は末吉公園の緑で綺麗な右目になっている、とすると左目が見当たらないなと。もしこの左目になりそうなあたりが緑の山や緑地ならかなり顔に近づくんだけどな〜と思って、調べてみる。
上のマーカー入れたマップの青で囲んだあたり。
するとここにゾッとすらした。
そこは昔、御殿山という小高い山があった場所。城北小学校・中学校あたりね。
今でも伊江御殿別邸という広大な敷地が緑とともに残っているが、山自体はだいぶ開発されて今では山があったとは思えないほど様変わりしている。
てことは、やはりここは一昔前まで緑が生い茂り、龍の顔でいうところのもう一つの目として存在していたのかもしれない!?とかね(^^;
今でもそこには伊江別邸という王族関係の史跡もあるわけで、今後も緑は絶えはしない場所だろうし。
もちろん、そんなこと言ったら後から後からどんな形にも見例えることはできるでしょ?と言われるのも分かります。
半分遊び心、だけど、意外と意外と無くも無い!?と思ってたりもします♪
とにかくやはりスゴイよ首里城&首里!
これからも神聖な地であり琉球の魂を受け継いでいく場所だと思います!
と、かなり長くなりましたが、今回の放送日が6月9日の『ロックの日』!ということで、放送後の一枚は〜♪
3人揃って、ロックンロールお決まりのポージングで締めてみました(´∀`)
ワワワワケンロー!
E.KEMURA
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