あ〜半年余りの恋なのに〜 ( ´∀`)
あ〜エプロン姿がよく似合う〜 ( ´∀`)
どうも!中条きよしの『仲良しこよしで中グスクじょうし』の時間です!
って、さすがに無理があるだろー(ꐦ°д°) !
という無茶苦茶な感じで始まりましたが、
今宵のインビジブルは『中城城跡の新発見!』
をお届けしました〜♪
ラジオでもお伝えしましたが、なんと築城500年以上を誇る中城グスク跡から、今の時代になお!新発見がされたという琉球ロマン!
たまんないですね〜!
しかし、この新発見の遺跡を実際に目にすることが出来るのは僅かな期間のみなんです!また城壁補修に際し埋め戻されてしまうことが決まっています!
ぜひ、この貴重な機会に中城城跡へ足を運んで、歴史の承認になってみてください♪
では、ブログの方でも今回のインビジボーネタを振り返っていきましょう!
まず、中城グスクの簡単な概要から。
中城城跡とは
中城と北中城両村で管理をしている中城グスク、みなさんご存知のように2000年に『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の一つとして『ユネスコ世界遺産』に登録されていますね。
日本においては11番目の世界遺産登録で、現在23あるうちの1つです。
さらに、その琉球遺産群の中、そして沖縄全体に300余りあるとされているグスクの中でも保存状態が良好であると言われるのが、中城グスク。
城壁やアーチ門など、その当時のままの遺構が残っているかなりレアなグスクなんですね。
護佐丸が居城していたグスクというのが最も有名なストーリーだと思うけど、実は護佐丸が築城したグスクではない。
護佐丸が座喜味から中城に移ってきたのが1440年、それ以前にも中城グスクは既に存在していて、先中城按司と呼ばれる按司たちが3代は住んでいただろうと言われている。
その按司たちがまずのグスク内、一の郭、二の郭、西の郭、南の郭を築き、護佐丸が後に北の郭、三の郭を増築したと。
郭というのは簡単に言うとフロアみたいな感覚で、大きなスペースがそれぞれ1、2、3、北、南、西とあるとイメージしてもらえると分かりやすいかなと。この辺りは後半でより詳しくお伝えします。
護佐丸が中城グスクに移ってきた後、あの琉球史上最大の乱と言われる『護佐丸・阿麻和利の乱』が勃発し、護佐丸はこの中城グスクにて自害を遂げたと言われますね。
ちょうど8月15日の中秋の名月の晩、観月会を開いている最中であったという。
その後中城グスクは王家直属の管轄城となり、次に国王となる王子の領地グスクとなっていく。
そこから中城間切の番所となり、廃藩置県後中城役場となる。グスク敷地内に小学校が置かれた時期もあった。
その役場は戦争によって焼き倒され、一時米軍施設として使われることもあった。
そこから公園へと移り変わり、まさかの遊園地や動物園として人々の憧れのスポットとなった時期もあったのだ。
そして今では世界遺産!
それこそ時代を超え、なんとも波乱万丈な歴史を経てきているグスクなのである!
現在でもまた、他のグスクとはちょっと違ったことを企画してしまう、いい意味での破天荒なグスクで、プロジェクションマッピングをやってみたり、大物アーティストを呼んでグスクライブを敢行してみたり!
世界遺産にしてはかなり柔軟に色々なチャレンジをされるグスクだよね♪
ここまで知れば一度は行ってみたくなったはずなので!
そのグスクの主な特徴、見所を紹介しよう。
中城グスクの特徴・見所
先ほども伝えたんだけど、中城グスクは6つの郭から成るかなり大きなグスクなんです。
しかも標高160mという丘陵地に位置するグスクなので、そこからの景色がハンパない!
沖縄の半分が見渡せるグスクとも言われている。
これだけ高い位置にあるということで分かるように、そうやすやすと攻め込めるグスクではない。実際グスクの上から見てもそれを実感するはず。
まず一の郭はグスクの中でも最も高い場所にあるフロアで、城主および重臣たちが政務を行う最も重要な場所。正殿が建っていたとも言われている。ここに後の番所や間切が置かれることになる。
二の郭は城主の家族やグスク内で働く女性たちが住む場所だったと言われている。この一の郭と二の郭は護佐丸以前に建てられていた部分。
そして三の郭、この三の郭の城壁がおそらく最も中城のイメージとして知られている部分で、プロジェクションマッピングの壁面となったり、コンサートステージのバックとなる城壁である。
ここが護佐丸によって増築された部分で、この三の郭には他のグスクには見られない貴重な築城技術の推移を見ることができる。
グスクの石積みには大きく分けて3タイプあって、石をそのまま積み上げただけの『野面積み』、石を四角く切って積み上げる『布積み』、
そしてかなり高度な、石を5角形や6角形などに切って、それをパズルのように積み上げていく『相方積み』がある。
二の郭までは布積みで積み上げられているんだけど、三の郭には相方積みが用いられている。
実は増築した三の郭の内側の壁というのは、二の郭の外壁も一面として利用しているので、三の郭では布積みと相方積みの双方を見ることができるという貴重な場所になっているのである。
この三の郭は、兵士用のスペースで、兵士達が居住する建物なんかがあったのではないかと言われている。というのもこの三の郭と、上の二の郭および一の郭は門などで繋がっておらず、万が一敵が襲ってきたら100%そこで対処せよという意味合いが見て取れるとのこと。
その三の郭の隣には『北の郭』と言われる、こちらも護佐丸によって増築された郭で、ここには護佐丸が造らせたという井戸もある。城内に水源を確保できるということは、当時としてはかなり最先端。ここにも戦術家護佐丸のこだわりが見える。
しかもここは人為的に造った井戸であるので、水が溢れ返る可能性がある。そこで余剰分の水が排水できる排水溝まで地下に造ってしまっているのだ。
そして南の郭。ここは一の郭のさらに奥に位置する郭。と言ってももちろん城主より偉い人間など城内に住むはずもないので、そこは居住エリアではなく祭祀空間であった。
その郭には御嶽がいくつもあり、首里に向かって御拝する首里遥拝所、久高島に向かって御拝する久高遥拝所、そして雨乞い御嶽もこの郭の中にあります。
こちらの雨乞い御嶽は首里崎山にある雨乞い御嶽とも似た造りになっている。
で、こちらの南の郭は他の郭に比べてだいぶ古さを感じるというか、城壁などが見た感じ綺麗に積まれてはいない。
実はそれは敢えてであり、この郭は神に祈りを捧げる場であるので、自然な形の石のまんまで壁なども積み上げていて、それ故現在でも野面積みを見ることができる場所にもなっているのだ。
そして最後に西の郭。西の郭はいわゆる兵士達の戦闘訓練をする場であったとされていて、とても広めの平場になっている。
この広い平場に向かい合う形で一の郭と二の郭の城壁が聳え立っているのだが、一の郭の城壁に緩さが見られたということで解体修復調査が開始された。
500年の時を超え、新たな発見!
解体調査を進めると、まさかの城壁の中からさらに古い時代の城壁が発見されて、それが14世紀頃の壁だということが判明!
ということはもちろん、護佐丸以前に建てられた壁ということが確実で、ここからまた新たな歴史的事実が発覚する可能性が見えてきたとも言えるわけだ!
築城から500年以上の時を経て今なお!新しい発見が出てくる!
一体誰がこの中城城を築城したのか、中城に纏わる知られざる歴史が発見されて琉球史がひっくり返る可能性が無いとも言い切れない!
実はこの城壁発見の企画展が現在、中城の護佐丸図書館にて行なわれていて20日まで開催されています。
さらに!そんな歴史的新発見を、今なら自分の目で見ることも可能なんです!
発見され調査され、古い壁の大部分はすでに埋め戻しが始まっているんだけども、一部まだその古い城壁を見ることができる部分が残されています!
ぜひ、この機会にそんなたまらない琉球ロマンに触れに中城グスクへ訪れてみてはいかがでしょうか!
ワワワワケンロー!!
放送後の一枚は、リモートナカジョウワケンロー!!
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ワワワワケンロー!
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ワワワワケンロー!
E.KEMURA
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