Invisible RYUKYU 第29回目は『仲島の大石、これぞまさにドラゴンボール!』

Wandering Okinawa!

はいさいワケンロー!

本日も Sh@re TIME内、Invisible RYUKYU 聴いてもらえましたでしょうか〜(´∀`)

あいや、わしーとったん!という方、ぜひラジコでどうぞ♪

今宵はまさかのアニソン『ドラゴンボール』まで歌ってしまってのスタートという、ほんとにこの先どこまでいくば!? な勢いですが、楽しんでもらいながら琉球ヒストリーも学んでもらえるとこれ幸いです♪

今宵は、現在浦添美術館で開催されている『葛飾北斎展』の中から『琉球八景』をピックアップして、さらにその作品の中から『仲島蕉園』という画の『仲島の大石』にスポットを当てて紹介をしました(´∀`)

葛飾北斎と言えば、言わずと知れた日本を代表する浮世絵師、ゴッホやモネにも多大な影響を与えたと言われる人物ですね。

その北斎の代表シリーズである富士山をテーマにした『富嶽百景』、そして誰もが一度は目にした事があるであろう『神奈川沖浪浦』が描かれた『富嶽三十六景』の作品も見応えありありなんですが、やはりウチナーンチュとしてはあの北斎が描いた『琉球八景』に興味が沸かないわけは無い!

富嶽シリーズもカッコ良かったよ!

富嶽シリーズもカッコ良かったよ!

しかしやはり琉球八景!

しかしやはり琉球八景!

ただ、北斎自身が当時の琉球へ訪れたという記録は無く、それ以前に琉球を訪れた中国からの冊封使によって描かれた『琉球国志略』の挿図、『球陽八景』を元にして描き彩色したものと言われている。

当時の琉球は薩摩侵攻の末、琉球という国家を維持はすれど幕藩体制に取り込まれて、江戸の将軍が代わる度、そして琉球の国王が代わる度に江戸へ使節団を送るという『江戸上り』が課されていた。

その使節団というのが、中にはわざと琉球を異国の地として目立たせるイメージ戦略のためだったとも言われたりするが、とにかく派手で劇団的な100人を超えるパレードのような道中だったという。

しかも、その使節団の中でとりわけ目立ったのが『楽童児』と言われる容姿端麗、且つ教養及び楽器の演奏や演舞に優れた美少年たちのグループであり、道中におけるその人気たるやものすごいものだったらしい。

今のジャニーズという例えがよく言われるほど。

んで、そういうこともあり当時日本本土でも琉球ブームが巻き起こっていたようで、そこに乗っかって描いたのが北斎の『琉球八景』だろうと言われている。

確かに『球陽八景』と『琉球八景』はほとんど差異がないほどの似通りぶりで、北斎はそれに色を入れて、尚かつ遊び心なのか沖縄の風景画なのに『富士山』が入っていたり、なんと雪景色の作品まである(^^; これは行き過ぎだよね(^^;

で、琉球の景勝地8枚が琉球八景となっているわけで、現代のその土地と見比べてみるとすごく面白い♪

三重城や波の上、奥武山も琉球時代はこんな感じだったんだ!? というのとか、当時と比べて埋め立てられた土地の規模に驚きもする。

で、最も興味深いなと思った『仲島蕉園』という作品について今日は取り上げたんだけど。

以前にも書いた通り、当時『那覇』と言えば通称浮島と言われた離れ島、で今の久米、辻、西町、東町あたり。

で、その那覇から久茂地川を隔てて海沿いに『仲島』という遊郭があった。ちょうど今の泉崎、那覇バスターミナル辺り。

その遊郭の様子を描いたものが『仲島蕉園』で、『蕉園』というのは芭蕉から来ているらしく、作品にも芭蕉が生い茂っている様子が見受けられる。

8枚が紹介されているパンフレットから♪

8枚が紹介されているパンフレットから♪

当時、その仲島蕉園あたりは画に描かれているように目の前が海になっていて、今で言うところのビーチ、遊泳所もあったらしい。

ということは、現バスターミナルから見て、奥武山方面に向けてはすぐ目の前が海であったということ。奥武山が離れ島だったということもあまり知られてはいないんじゃないかな?

で、時を経て沖縄も近代的になり埋め立て&開発が始まる。後に仲島遊郭は辻に併合され仲島近辺は埋め立ての対象地となる。それこそ今のバスターミナルあたりから沖電ビルあたりまでは埋め立て地。埋め立て後、那覇バスターミナルあたりは軽便鉄道の那覇駅でもあったらしい。

ただ、今の状況ではその辺りが海だった面影も無ければイメージを膨らませることも難しい。

しかし唯一その当時の名残を今でも目の当たりに出来るものがあり、それこそが今日のキーとなる『仲島の大石』。

この大石、はっきりと『琉球八景』の『仲島蕉園』にも描かれており、遊郭の目の前に鎮座している。

で、この大石こそ、つい最近まで那覇バスターミナルの敷地内にポツンと佇んでいた、あの大石なんです!

バスターミナルを訪れた事がある人は、一体なんなんだこんなとこにこのデカい岩は??と思ったことあるはず。

ここで1つ疑問が。

埋め立て&開発に伴い、この岩は明らかに撤去したり動かした方が都合が良かったはず。ただ、どうしても動かせない理由がそこにはあった。

少し話をずらしまして、当時は上にも述べたように『那覇』は離れ島で今の久米、辻あたり。で、その離れ島という立地が好都合でもあっただろうと言われるんだけど、多くの中国人が貿易や商売、技術や学問普及のために那覇に移り住んで来て浮島那覇の一角に久米村という村を作る。今で言うチャイナタウンといったところか。

彼らこそ久米36性であり、まさに当時の最先端をいく頭脳集団、技能集団だ。当時の琉球の多大なる発展や行政の改革にも多大な影響を及ぼす人々なわけ。蔡温や謝名利山もこの久米36姓の末裔だと言われる。

で、彼らは中国からの移住者ということもあり、風水へのこだわりはものすごく強かった。

そこでもちろん久米村の中に置いても風水で街作りを行なう。今でも存在する久米大通りという通りも強い『気』が通っていたんだろうね。昔からとても風水上大事な道で、彼らはその通りを龍の身体と捉えていた。

その名残が今でも見て取れるスポットがあるんだけど、久米大通りの先端、泉崎交差点と交わる一角には上空から見ると龍の頭とはっきり分かる場所が設けられている。

泉崎交差点の左側に緑の三角があるっしょ!? by Google Map

泉崎交差点の左側に緑の三角があるっしょ!? by Google Map

もうちょい拡大したバージョン  by Google Map

もうちょい拡大したバージョン by Google Map

そう、ここが龍の頭、そして大通りは龍の身体、そして龍と言えば??

手に玉を持っているよね? 

身体(大通り)から頭(交差点)、その頭からもう少し直線で伸ばした先にあるもの。

実はそれこそが!先ほどの仲島の大石!!となるわけ。

この仲島の大石こそ、久米の人々からは龍が手に持つ『龍朱(玉)』であると捉えられていて、ものすごく重要なポイントとして位置づけられていたわけ。

そう、泉崎近辺では度重なる開発の都度この岩をどうするかって議論になったらしいけど、久米の人々からこの岩を撤去してしまうことや動かしてしまうことに猛反対され、そのまま今でも残っているという話。

なるほど納得ですよね(´∀`)

さらに今、那覇バスターミナルって大規模な再開発が行なわれているけど、その大石はどうなっている!?

と思って見てきました。

それがこちら!

より目に触れられるようになりそうだよね♪

より目に触れられるようになりそうだよね♪

実は県指定の天然記念物にもなっているんです。

実は県指定の天然記念物にもなっているんです。

もちろん撤去などされることはなく、逆に今までよりもだいぶ存在感を増した形で鎮座しておりました(´∀`)

今後より多くの方に目にしてもらう事が多くなると思うし、そうなることでまた沖縄の歴史に興味が出てくる人が増えてくれば幸いですな♪

ということで、葛飾北斎からはちょいと離れてしまいましたが(^^;

琉球八景から歴史を遡ると、こんな面白いストーリーが出てきましたとさ♪

まさに龍の玉、ドラゴンボール!!ですな!

世界中のドラゴンボールファンの聖地にもできそうだな♪

放送後のお決まりの1枚は、もちろんこのポーズ!!

カメハメ波~!とな♪

カメハメ波~!とな♪

ワワワケンロー!!!


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E.KEMURA

E.KEMURA

沖縄県内で、外国人向けのフリーペーパー Japan Update の運営を経て、現在は沖縄英字ウェブマガジン Okinawanderer の発行、国際交流プログラム開催、および外国人向けライフスタイルサイト Okistyle を運営する(株)琉球プレスの代表。日々外国人と民間業者との接点を作り出すコーディネーター、コンサルタントとしても絶賛驀進中! 2018年より毎週火曜日午後7時台エフエム沖縄『Share TIME』にボス・イケムラとしても沖縄の隠れた魅力を発信中!
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