尚寧といえば、琉球史上最大とも言える大事件が起きた時代の国王だ。
それが1609年「薩摩侵攻・琉球侵攻」である。
ではそもそも、なぜ薩摩侵攻は起こったのか。
そこには大和の戦国の歴史が大きく絡んでいたのである。
日本史でも必ず習う、信長、秀吉、家康とも大きく絡み合っていたのである。
天下一統という信長の意思を継いだ秀吉は、破竹の勢いで日本全国を平定していく。しかし、九州全土を掌握する勢いの島津は秀吉に屈しない。
そこで秀吉は10万もの大軍で島津を攻める。
流石の島津も降伏せざるを得ず、時の当主島津義久は剃髪して出家する。当主を継いだのは弟の義弘である。

この義弘もまた、関ヶ原の戦いにて西軍に付き家康方へ屈服。度重なる敗北にも関わらずどうにか領地は安堵されるものの、様々に過重な負担を担わされ財政難に陥っていく。当主は義弘の子、家久へ。
なぜ領地お取上げや一家断絶までには至らなかったのか。
実はここに「琉球」の存在があったのだ。
秀吉による前代未聞の朝鮮出兵で、明や朝鮮からの大和への信頼はゼロにまで落ちてしまう。秀吉は琉球にも兵役を課すが、それをできないことを見越していた薩摩は、ここで兵役を肩代わりしてやるからと恩を着せる。
しかし秀吉没後、家康は一転、武力ではなく対外貿易での国交復活路線を模索する。
そこでどうしても必要になるのが「琉球」の存在なわけだ。
琉球を介して明・朝鮮との国交回復を図ることを画策。
家康に対して恩義を上げたい薩摩、財政難を理由に大島の割譲も見据え、あの手この手で琉球へ幕府への従順を強要、しかし琉球はのらりくらりと要求を交わし、サボタージュさえしてしまう始末。また、久米村を始めとする反日・親明派と、大和文学などに傾倒する親日派との間に亀裂も入り内政の対立化も起こってくる。
いわゆるこの時よりすでに始まっている、政治の常套手段「分断工作」てやつですね。
しかし一向に埒が空かない琉球の態度に、ついに義弘・家久親子が兵を上げて、幕府の許可を得て琉球入りするという事件なわけです。義久は消極的だったといいますね。

侵攻後は薩摩の支配下に置かれるが、ちょうど儀間真常がサトウキビから黒糖を精製する技術を明から仕入れ、黒糖生産が一気に盛り上がりを見せ始める。
まさに金の成る植物を目の当たりにした薩摩は、琉球支配を明には隠しつつ裏で貿易を操作し、莫大な利益を産み始めるのだ。
その莫大な利益こそが、後に薩長同盟を生み出し、討幕、明治維新への潤沢な資金となっていくというわけ。
仮に島津が秀吉軍を破っていたら、家康も秀吉と同じ武力路線であったなら、秀吉または家康が島津の一家断絶を断行していたなら。時代は降るが斉彬の死がもう少し遅かったのなら。
果たしてその後の琉球は一体どうなっていたのでしょうか。一連の怒涛の歴史の狭間で、尚寧は一体どういう想いだったのでしょう。
そのあたりの歴史も踏まえて、琉球歴史ドラマ「尚寧」を楽しみましょう〜♫
ロック!
E.KEMURA
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