今日は久々首里まーい歴史ツアー! その名も「首里城下町 屋敷跡と琉球闇事件」やってきました😎!

琉球史には、未だ謎に包まれている闇事件がいくつもありますね。
最たるものは「牧志・恩河事件」、「平敷屋・友寄事件」となりますが、この二つの事件は時代差が100年くらい離れているので、今回は「平敷屋・友寄事件」と「玉城朝薫」にスポットを当てて廻ってきました😁

あまり接点のなさそうな二人の偉人ですが、芸能・文学に関する共通点の他にも、なぜか没年が同じ1734年。
平敷屋はご存知のように王府を誹謗したとされ、時の三司官であった蔡温の命によって極刑とされる磔の刑に処される。方や朝薫は順調な出世街道をと思われしも、晩年には離婚をし、再婚をするも最後の最後は世間と隔たりを持つかのように一人用の墓を用意し、死後長らく一人寂しく墓で眠っていた。今は浦添前田のトンネルの上に墓がありますね。さて一体何があったのか。

平敷屋と朝薫、1714年の慶賀にはきっと同じ船に乗っていたと思われる。あまり知られてないが、かなり意気投合する仲間・師弟関係であったのではないだろうか。しかもその慶賀には名護親方・程準則も乗っており、その旅路で「六諭衍義」を島津吉貴に献上し、その徳川に渡り日本全国の寺子屋で手習本として使用されていく。
その数年後の1719年、尚敬王の冊封の宴でついに「組踊」が初演となります。
また、さらに興味深いのは、朝薫の初婚の相手となった人物は「馬氏 名護親方良意」の娘であり、良意は三司官も務めるほどのかなり家柄の良い高級士族である。
しかし蔡温が三司官に上り詰めた1728年、上り詰めたということは、誰か一人が三司官から降りたということになる。その三司官を外れた人物こそが!「名護親方良意」だったのである! さらにもう一人の三司官が友寄安乗の兄・美里安満だ!
蔡温にとっては、念願の三司官に上り詰めた。その際に「蹴落とした」、という表現は少し乱暴かもだけども、とって代わることができた相手、その娘婿が朝薫となるわけだ。もう一人の三司官、友寄の兄・美里安満も蔡温とは全くソリが合わなかったともされる。その弟が朝敏とともに極刑に処される。
いかにもモヤモヤした感情が出てきそうだよや😅
朝薫はその偉大すぎる功績の割には出世できていない。最後は独り寂しい最後を迎える。ここに因果関係は全くないのだろうか。良意の娘が、朝薫を案じて身を引いたなどとも考えられなくはない。
また、平敷屋朝敏はそのあまりの美貌が災いしてか、二十二の頃に、それこそ蔡温が国師(スーパー家庭教師のようなもの)を務めた尚敬王の妃が、朝敏に想いを寄せてしまったと囁かれる事件が起きた。
それにより朝敏は屋敷を没収され、自分の領地である勝連・平敷屋に左遷され、隠遁生活を余儀なくされる。しばらく経って嫌疑が晴れて首里に戻るが、ここにも何かきな臭さを感じる。尚敬王・蔡温・妃・朝敏。
さらに!蔡温が三司官になった翌年の1729年、それまで100年以上名護間切の地頭職を担っていた名護良意を始めとする馬氏名護一門から、名護地頭職が程準則に移っている。蔡温が敬愛する大先輩、程準則にである。程準則が名護聖人の称号を抱える原点がここにある。
蔡温の息子は、まさかの尚敬王の娘を娶っている。その時に賜ったとされる屋敷跡が赤平にある。
これだけの歴史的大事件の数々なのだが、それぞれ点と点で繋がっているように感じる。
まだまだ闇歴史は眠らされているようだな😎
ロック!
(蔡温側には蔡温側の思想や愛国心があってのことだと思う。その辺はまたそのサイド目線で取り上げていこう。)
E.KEMURA
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