米国ウチナー研究家ミックさんと与勝巡りは続く。
前編はこちら
とはいっても、何の準備もしていないもんだから、どこに連れて行こうか考えながら移動する。
と、そういえば勝連の内間に関しても何かしら引っかかる。以前から歩いてみたいと思っていた場所。
ミックさんにそう提案し快諾をもらうも、自分でもどういう見所があるかも分からない内間を散策してみる。しかも結構な雨。。
さて、『内間』といえば何を思い浮かべるだろう?
おそらく西原の金丸内間御殿が真っ先に思い浮かぶのではないかと思う。
または浦添ンチュであれば、浦添の内間もある。
そしてここ勝連にも内間があるのだ。
しかも、ワタクシボスイケ的にはそれぞれの内間がどうにも引っかかる場所なわけ。
なぜか
まず浦添の内間は浦添の端っこであり、すぐ隣はあの『銘苅』だ!さらに別隣は『勢理客』!今帰仁の『勢理客』とも繋がるのか?今帰仁との繋がりとなると『湧川』も関わってきそうだ。
銘苅・湧川に関してはこれまでも色々書き連ねているので、興味ある方はぜひ読んでみてほしい。
特に第二尚氏、金丸、伊是名、銘苅、尚宣威(金丸弟)系・湧川と深く繋がっている気がしてならない。
さらに!それこそ湧川系にも繋がる浦添尚家の代表格『羽地朝秀』の弟・『勝連按司朝賢』がこの浦添内間と深い関係にあるようなのだ。浦添翁主を娶り、その支流が『内間家』として今に至る。
それから、もちろん西原の内間はそれこそ金丸が土地と屋敷を賜り隠居する地にもなるなど、金丸との関係性が強烈につながっている場所。
そしてここ勝連にも『内間』。
勝連の重要さに関してはこれまでにも多く伝えてきた。察度は勝連按司の娘を娶っているし、おもろそうしでは勝連を鎌倉に例えるほど讃えている。阿麻和利の存在や勝連グスクからの出土品も他に類を見ない。
その勝連にも『内間』がある意味深さはやはり何かしら感じざるを得ない。
と、ちょうど通りかかった道に内間公民館があり、どうも気になるので中まで入って少しばかり質問してみた。
内間の歴史について少し伺いたいんですけど、館長さんいらっしゃいますか?
応えてくれた女性は、え?こんな田舎の内間の歴史ですか? 珍しいですね😅と。
あいにく館長さんは席を外していたんだけど、こちらの女性もなかなか歴史に詳しくって、知ってることを色々と教えてくれた。
その中でも特にゾゾゾってきたのが!
なななんと!
地元の伝承によると、こちらの勝連内間にも金丸が滞在していたという話が残っているらしい!
ウヒョー🤣!
これはやはりただ事ではないぞ!
となると『金丸』と『内間』というキーワードには間違いなく何かしらの関係性があるはずだ!
内間、うちま、ウチマ、ん?昔風に読むと『ウティマ』かな?
あ”!!さらに思い出した!
名護の汀間(ティマ)!!
ここには有名な金丸伝説が残り、住居跡や金丸が掘ったとされる井戸まで残っている!
『てぃま』に『御』を付ければ『ウティマ』にもなるぜ!?
そんでもって『テイマ』は『帝間』とも考えられなくもない!?
金丸は伊是名から宜名真に渡り南下する際(個人的に金丸・伊是名〜宜名真説に対してあまり肯定的ではないが)、東岸沿いに名護の汀間、勝連の内間、そして西原の内間に定着し、それらが『ウティマ』と呼ばれ、さらに国王となった後に曰く付きの地『銘苅』の隣に建てらてた村も『ウティマ』と呼ばれた可能性は!?
さらになんと今帰仁にも内間殿内があり、諸志には内間家の古いお墓もある。そう、ボスイケがもっとも注視している今帰仁にもなのだ!(このあたりはまた後日詳しく)
『内間』という意味ありげな名称は、金丸とその弟・宣威(個人的には弟ではないと思っている&宣威こそが『帝』に当たる最重要人物ではないかと思っている)が渡り歩いた場所場所に名付いていった地名なのでは!?
というボスイケ妄想論を加速させるカッチンワンダラーとなりました😁!
ミックさんとのツアー最終地は大田にある石畳道『大田坂(ウフタビラ)』を往復して終了!
まだまだリサーチは続く!
ワワワワケンロー!!
E.KEMURA
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